館の北側の土塁と堀跡
武蔵七党の一つ猪俣党を祖とする人見氏の居館
所在地
埼玉県深谷市人見
一乗寺:深谷市人見1621-2、TEL048-571-4543の北方300mほど
形状
館
現状・遺構等
現状:雑木林、田園、宅地
遺構等:土塁、堀、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/03/09
歴史等
人見氏館は、平安時代末期に築かれたと伝えられる。人見氏は武蔵七党の一つ猪俣党に属する河匂政経(かわわまさつね)
がこの地に住んで人見六郎と名乗ったのに始まる。その子行経は寿永3年(1184)の一の谷合戦で活躍、建久元年(1190)
頼朝上洛の際に随行もしている。
子孫は、鎌倉幕府の御家人として活躍した。中でも、人見四郎は元弘3年(1333)2月に楠木正成が籠る河内赤坂城攻めに参戦し、
壮絶な死を遂げたことで有名な武将である。
室町時代のはじめ頃、人見氏は丹波国に移った。
室町時代中頃には、深谷上杉氏の一族の上杉憲武が、館跡を改修して居住した。現在見られる堀や土塁は、
この時の姿をとどめているものと思われる。尚、憲武のその後の動向はよく分かっていない。
昭和初期の実測図を見ると、館は東西に並ぶ3つの郭から成っていたと考えられ、その範囲は東西約300m、南北約150mである。現在は、
いちばん西の郭が最もよく保存されており、西側と北側に二重の土塁と空堀が残されている。
『「現地説明板」、「中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館Ⅱ編(さきたま出版会刊)」より』
現況・登城記・感想等
畑の中に雑木林があり、そこに郭とどれほど規模の大きくない土塁、空堀が残っているだけである。
館跡の南方300mほどの所に、人見四郎を開基とする一乗寺があり、人見氏累代の墓がある。
(2008/03/09訪れて)
ギャラリー
人見氏館縄張図
昭和初期の実測図を見ると、館は東西に並ぶ3つの郭から成っていたと考えられる。
西郭全景(館跡南側から)
写真奥の雑木林に空堀、土塁が確認出来る。写真雑木林の右側が、TOP写真の場所である。