浅沼八幡宮の裏に僅かに残る空堀と土塁
佐野氏一族阿曾沼氏により築城
所在地
栃木県佐野市浅沼町中の内
形状
平城
現状・遺構等
現状:宅地(浅沼八幡宮他)
遺構等:土塁、堀、説明板、石碑
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/02/28
歴史等
阿曾沼郷の領主は阿曾沼(浅沼)氏で、藤姓足利有綱の四男広綱を祖とする佐野氏の一族である。阿曾沼城(あそぬまじょう)は寿永年間
(1182~85)、阿曾沼広綱によって築かれ、以後代々阿曾沼(浅沼)氏が居城したと云われている。
広綱は、治承4年(1180)の源頼朝の挙兵後、常に頼朝方に属し、御家人として*
野木宮合戦や文治5年(1189)の奥州平定に功績があったので、本拠地阿曾沼郷の他に、陸奥国遠野保(岩手県遠野市)
の地頭職に任じられ、子の親綱は承久の乱(1221)の功績により安芸世能(広島市の一部)の地頭職となっている。また他にも、信濃飯田
(長野県飯田市)その他の所領も統治した。
しかし、南北朝時代の文和年間(1352~56)ころ、小山氏政の台頭によって阿曾沼領を横領されているので、
このころ阿曾沼氏は没落したようであり、阿曾沼城は慶長19年(1614)、佐野氏の改易によって廃城になった。
阿曾沼城は、周囲に堀をめぐらし土塁と防柵に囲まれた典型的な方形平城で、約4,600㎡(東西約190m、南北約240m)
の広さであった。
『「とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)」、「現地説明板」より』
*広綱は、野木宮合戦(1183)のとき、惣領足利忠綱に背いて、足利有綱の嫡男基綱や五木村信綱らとともに、
頼朝方の小山朝政・宗政を助け、小手指原(茨城県五霞町)や小堤(茨城県旧総和町)などで奮戦した。
現況・登城記・感想等
阿曾沼城跡(土塁と堀)は、佐野女子高校(TEL:0283-23-0239)の真東400m程のところにある。
高校から真っ直ぐに東へ向かう道はないので、細い道をくねくねと行くことになるが、近いのですぐ見付かった。
阿曾沼城跡は、宅地化により遺構のほとんどは消滅してしまい、土塁と空堀の一部だけではあるが、浅沼八幡宮の裏(東側)に、
良好な形で残っている。
また、社殿横には、阿曾沼広綱から数えて34世の浅沼徳久氏の書による、3m近くもある立派な城址碑が建てられている。
(2008/02/28登城して)
ギャラリー
城址碑
社殿横には、阿曾沼広綱から数えて34世の浅沼徳久氏の書による、
3m近くもある立派な城址碑が建てられている。
堀底への侵入禁止
説明板とともに、「お堀の中には絶対入らないこと」との注意書きがあり、鎖で閉ざされている。
以前は入れたようで、堀底への階段が付いていた。堀底までは3mほどであろうか?