興聖寺の周囲をめぐる土塁
鎌倉時代に佐野国綱が一族の岩崎氏のために築城、佐野氏改易とともに廃城
別名
清水城、吉水城
所在地
栃木県佐野市吉水町739興聖寺(TEL:0283-62-1845)
形状
平城
現状・遺構等
現状:興聖寺、市街地
遺構等;曲輪、土塁、堀、標柱、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/02/28
歴史等
「下野国誌」や「栃木県誌」などによれば、興聖寺(こうしょうじ)城は、安貞2年(1228)に佐野国綱が、
佐野氏一族の岩崎義基のために築いたと云われている。
永正年間(1504~1521)、岩崎義基12世の孫重長が岩崎城(佐野市岩崎)へ移ったので、大永元年(1521)
より佐野季綱の居城となった。しかし、季綱はこの城にはあまり居城せず、家臣の田沼・中江川・天沼・清水・今宮の諸氏らが交代で守備し、
その後、山田若狭守が城代として長く居城したという。
そして、慶長19年(1614)の佐野氏改易とともに廃城になったと思われる。
古絵図によれば、本丸・北二の丸・南二の丸・三の丸からなる複郭式で、各曲輪は水堀で囲まれ、城郭全体も水堀で画されていたといい、
城の周辺には侍屋敷があって、有力家臣が配されていたという。
現在残っている遺構は、興聖寺の境内となっている本丸跡を囲む土塁と堀のみである。本丸跡の規模は、東西116m、
南北133mのほぼ方形である。
尚、本丸跡内の興聖寺が田之入(佐野市田之入町)からここに移ったのは、佐野氏没落後の寛永12年(1635)のことである。
『「とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
興聖寺城の遺構は、本丸跡の興聖寺を囲む、高さ2~3mほどの土塁が結構良好に残っている。道路に面する西側の土塁は一段と高く、
幅も広く、その上には墓が建っていると思ったら、こちらは墓地造成と道路建設で削平され消滅してしまった部分とのことである。
また、水堀跡はかなり埋って浅くなってしまってはいるが、面影は残っている。
(2008/02/28登城して)
ギャラリー
興聖寺入口
東側(南部)の土塁
東側北部(写真右手前)から北側東部(写真奥)
にかけての土塁
東側の堀
北東部の堀