山麓の登城口にて
武田三大名城のひとつは、久能山東照宮の地に
所在地
静岡県静岡市駿河区根古屋
形状
山城(標高:291m、比高:150m)
現状・遺構等
現状:山林・東照宮
遺構:空堀・曲輪・土塁・勘助井戸
【国指定史跡】
指定日:昭和34年6月17日
指定理由:久能寺、次いで久能城、さらに徳川家康の遺言による神葬地として東照宮社殿が築かれるなど、歴史上、価値がある
面積:約105万㎡(久能山)
資料館:山頂の久能山東照宮博物館に徳川歴代将軍の遺品などを展示
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
1976年他
歴史等
久能山城のその初めは、平安時代開創の天台宗寺院の補陀落山久能寺であった。
開創当初から寺院城郭としての性格が強く、「*観応の擾乱」(1351)のときは、直義党の中賀野掃部助らが立て籠もったと云われている。
また今川氏も駿府防衛のため利用していたようである。
永禄11年(1568)12月、駿河に侵攻した武田信玄は、その戦略上の重要性から久能寺を移し、本格的な城郭を築いた。
久能城は駿河の海上を支配するために持舟
(もちふね)、江尻の2城を結ぶ水軍の拠点として築いた典型的な山城である。
天正10年(1582)3月武田氏滅亡後、徳川家康の領するところとなり、家康の異父弟松平勝俊が城主となった。天正18年(1590)
の秀吉の小田原征伐後、家康は関東移封となり、駿河は中村一氏が領し、中村氏の家臣松下吉綱が久能山城主となった。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、中村氏は伯耆米子へ転封となり、
代って内藤信成が駿府城へ入り、
その支配下に属することとなった。
その後、慶長11年(1606)、12月から徳川家の臣・榊原清政・照久父子が在城するが、元和2年4月17日徳川家康死去後、
その遺言に従い、久能山城を廃止して山頂の愛宕曲輪に葬り、旧城郭内に東照宮が建設された。そのため、
本山は神域として幕府の管理するところとなり、明治維新を迎えた。また、「1周期を過ぎた頃に日光山に小堂を建てて移霊せよ」
という遺言があったので、日光東照宮が造営された。
『「図説・日本の史跡6中世(同朋社刊)」、「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」参照』
【観応の擾乱】
観応の擾乱とは,南北朝期におこった「室町幕府の内部抗争
(足利直義と高師直の対立。それを傍観しているようにしか見えない足利尊氏。結局漁夫の利で尊氏の勝ち)」で、
1349年から1352年まで続いた。
【武田三大名城】
久能山城は、甲陽軍艦では岩殿城・
岩櫃城と共に武田の三大名城とされる。
現況・登城記・感想等
うかつにも、静岡に住んでいた1970年代から80年代まで、よく出掛けたにもかかわらず、城に興味の無かった当時は、
久能山が城跡であるとは、つゆ知らず、おまけに岡崎生まれにも関わらず、嫌いな家康の東照宮ということであまり見て回らなかった。
当時、私にとって久能は息子達と出掛ける「いちご狩りの場所」であったのだ!
ギャラリー
久能山東照宮