本丸南東部の土塁と空堀
田原城の戸田氏が遠江三河国境に進出してきた今川氏に対処する為に築いた城
所在地
愛知県豊橋市仁連木町(大口公園)
【アクセス】
豊橋仁連木老人福祉センターのすぐ西。県道31号線「東田中郷信号」を3~400mほど東進し「二連木信号」を左折して200mほどで右手に大口公園(二連木城)がある。角に「豊橋仁連木老人福祉センター」への案内板が立っている。福祉センターの駐車場を拝借した。
豊橋仁連木老人福祉センター:仁連木町136-2、電話0532-62-0213
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 大口公園
【遺構等】 曲輪、土塁、石積み?、空堀、標柱、石碑、説明碑
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2011/04/16
歴史等
戸田宗光は、文明12年(1480)頃に築いた田原城を本拠地として牧野氏と並ぶ東三河の有力な国人として成長した。
宗光は、田原城を子憲光に委ねて、牧野氏が今橋城(吉田城)を築く12年前の明応2年(1493)に二連木の地に城を築いた。
この地に宗光が築城したのは、田原城のある渥美半島が伊勢神宮の神領であったため、他の土地を求めたとも、また今川氏親が三河平定のために遠江と三河の境にある船形山に城を築いたので、これに対処するために二連木城を構えたとも言われる。
その後、天文10年(1541)宣光が城の修築をした。
天正3年(1575)には、長篠の合戦の前哨戦として、武田勝頼に攻められたことがある。
天正18年(1590)城主戸田泰長の時に廃城になった。
『「日本城郭体系9」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
二連木城(にれんぎじょう)は、本丸跡が住宅地の真ん中の公園として残され、本丸を取り囲む土塁や東側の空堀跡が比較的良好に残っている。
また、本丸北側下にある児童公園から見上げる高さ6mほどの切岸が城の面影をよく残している。
(2011/04/16訪れて)
ギャラリー
二連木城(大口公園)現況図
公園入口
二連木城は、本丸跡が大口公園になっている。公園入口には、標柱と縄張略図原図などが載せられた説明碑(左写真中央奥と右写真)が立っている。
本丸南東部の土塁と空堀①
公園入口から右(東)へ向かうと土塁と空堀跡が見える。
本丸南東部の土塁と空堀②
土塁の外側(東側)から見ると、外側土塁に往時のものらしき石積みがあったがはたして・・・?
本丸南西部から西側にかけての土塁
本丸南西部から西側にかけて土塁が長く続いている。
本丸北東部の土塁
本丸
東側から撮ったものであるが、公園入口にあった説明碑の縄張原図から察するに、右奥のやや高くなったところが本丸を東西に区画する土塁らしく、その上に城址碑が立っている。
城址碑
本丸を区画する土塁と空堀?
本丸と二の丸間の空堀
公園(本丸跡)の東側には老人福祉センター(二の丸跡)があり、その間の空堀も比較的分かりやすい。
本丸北側の切岸
本丸北側下にある児童公園から見上げる高さ6mほどの切岸が城の面影をよく残している。