美濃 黒野城(岐阜市)

南西部から堀越しに城址を

加藤貞泰築城の近世の土塁の城

所在地

岐阜県岐阜市黒野、黒野城跡公園

形状

平城

現状・遺構

現状:黒野城跡公園、宅地他
遺構等:曲輪、土塁、水堀、石碑、標柱、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/05/05

歴史等

黒野城は、文禄3年(1594)加藤光泰の子貞泰により築かれた。
加藤光泰は、はじめ斉藤龍輿に仕えていたが、斎藤氏の滅亡後は織田・豊臣氏に仕え甲斐甲府城主として、 24万石を領したが文禄の役にて朝鮮の陣中で歿した。
貞泰が幼少であったため、文禄3年(1594)7月甲府城より、 美濃黒野に移され4万石へと減封となった。
貞泰は、関ヶ原合戦では東軍に属し、慶長15年(1610)まで15年間、黒野城を居城としていたが同年7月伯耆米子6万石に移封となり、 黒野藩は短期間で終わった。
元和3年(1617)伊予大洲城に移り、 左近大夫と名を改め、同9年5月に歿した。
『現地説明板他参照』

現況・登城記・感想等

黒野城跡はナビで住所(岐阜市黒野)を指定すると城址記号(凸)が出て来てすぐ分かったが、駐車場所に困った。 城跡南側道路に多少の余地があったが、駐車禁止の大きな看板があり、停めにくかったが、ちょっとだけ拝借。
まずは、西側の堀に架かる土橋を渡り、虎口から本丸内へと入って行くと、本丸跡はグラウンドになっており、周囲を巡る高い土塁が見事だ。
本丸は、約100m四方の方形で、周囲を巡る高い土塁と水堀が完存している。
土塁は、北西隅と南東隅が広がりを持った櫓台となっている。
次に、水堀の外側を見て廻る。北東部を除いて見て廻ることが出来るが、その何処から眺めても土塁と水堀の姿はかっこよく、絵になる。 ついつい何枚も写真を撮ってしまった。
尚、公園の北側300mほどの所にある多賀神社境内近辺にも、外郭の堀や土塁が残っているそうだが、今回は時間の都合で止めた。
(2008/05/05登城して)

ギャラリー

土橋
まずは、西側の堀に架かる土橋を渡り、虎口から本丸内へと入って行く。虎口は、 往時は枡形虎口であったようだ。

本丸
本丸内へと入って行くと、本丸跡はグラウンドになっており、周囲を巡る高い土塁が見事だ。

【堀・堀・堀・・・】
この城の見所は何と言っても、本丸の周りを巡る水堀と高い土塁であろう。水堀の外側は、 北東部を除いて見て廻ることが出来るが、その何処から眺めても土塁と水堀の姿はかっこよく、絵になる。ついつい何枚も写真を撮ってしまった。
(南側)

(東側)

(南東部)

(北西)

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