北条水軍屈指の海賊城も秀吉の小田原征伐で開城
別名
鵜島城
所在地
静岡県下田市下田公園3丁目
形状
海賊城(標高:60m)
現状・遺構等
現状:山林・公園
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2002/08/14
歴史等
伊豆半島の東南端、下田港の湾口を擁する標高60mの岬全体が城郭で、直径800mほどの円周に、
いくつもの入江を持つ全国屈指の海賊城である。
元々、下田は付近は後北条氏麾下の玉縄衆朝比奈氏の所領であったが、豊臣秀吉との関係が悪化する中、
北条氏政は敵の来襲に備えてここを水軍の根拠地にし、伊豆衆筆頭の清水康英を総大将に、同心高橋丹波守を副将に任じ、
さらに小田原から江戸摂津守を派遣して、強力な守備態勢を固めた。
天正18年(1590)3月、いよいよ秀吉の小田原征伐が始まり、豊臣水軍は、数千の軍船をもって伊豆半島に襲い掛かった。
他の北条水軍城が続々と降伏する中、1万余と言われた秀吉水軍に対し、康英の指揮のもと下田城の兵は僅か600でよく持ち応えて、
1ヶ月余りも籠城したが、衆寡敵せず遂に開城した。
そして奮戦したが、開城交渉により康英は下田城を退去することになる。
北条滅亡後、家康が関東に入封すると、下田は戸田忠次に与えられた。関ケ原後に息子尊次が三河田原に転封になると廃城となった。
以後、幕府直轄の天領地となり下田町奉行が置かれ幕末まで続いた。そして下田城は自然廃城となった。
下田城は鵜島城ともいい、城址にも「鵜島城址」の石碑が建つが、これは小字名によるもので、公式な文書には全て「下田城」となっている。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)より』
現況・登城記・感想等
その当時は、城の周囲の大半が断崖を隔てた海で囲まれ、
陸地と接するのは東側のわずかな部分だけの天然の要害城であったとのことである。
曲輪・土塁・空堀等の遺構が結構よく残っているが、これといって特徴も感じられない。私にとっては印象の薄い城跡である。
新井城とよく似た感じである。
新井城や鳥羽城もそうであるが、
海賊城というのは、当時とは地形等が変わってしまい分かり難いのかも。
(2002/08/14登城して)