三の丸の石垣
山名祐豊、執念の城も秀吉の第二次但馬征伐で落城
別名
高城、有子城
所在地
兵庫県豊岡市出石町内町
形状
山城(標高321m、比高約300m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、石垣、堀切、土橋、竪堀
満足度
★★★★☆
訪城日
2006/09/02
歴史等
山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、応安5年(1372)頃、標高140mの此隅山(このすみやま)に城を築いた。
元々は「子盗山(こぬすみやま)」であったのが訛って「此隅山(このすみやま)」になったと言われる。
此隅山城は長らく山名氏の本拠であったが、永禄12年(1569)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城した。
山名祐豊(応仁の乱の中心人物・山名宗全の曾孫)は、残存兵力をかき集め、再攻撃に備えるために城に堅固さを求め、天正2年(1574)、
此隅山より高い標高321mの有子山山頂に有子山城を築き、本拠を移した。「子盗(此隅)」の名を嫌って「有子」と命名したといわれている。
しかし、天正8年(1880)秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城し、祐豊は自刃し、その子氏政は因幡に逃亡し、但馬国・
山名氏は滅亡した。
有子山城は、その後しばらくは織田系の城主の管理となり、城代の時代が続いたが、天正13年(1585)から前野長康、文禄4年(1595)
から小出吉政が城主を務めた。
江戸時代に入り、慶長9年(1604)吉政に代って領した子吉英により有子山山麓に近世城郭・出石城が築かれ、
有子山城は廃城となった。
『「現地説明板」「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」等参照』
【一口話】
山名氏は、当初は城下町を挟んで反対側の「比隅山(このすみやま)」に城を構えていたが、「比隅山」は昔は「子盗山」と書いたそうである。
最近はその表記が前者に統一されているそうだが、その比隅山城にて子が出来ず、反対側の山に移って、子ができ「有子山(こありやま、
ありこやま)」と呼ばれるようになったとか。
現況・登城記・感想等
有子山城へは近世の出石城址の奥から急峻な登城道を登っていく。いや、「急峻」なんてものではない。実際は、
せいぜい30度から35度くらいのものであろうが、70度はあるように感じるほぼ直線の強烈な岩盤の尾根道
(両側を崖状に削られているのでは?その幅約3~5m程)を登っていく。しかもその尾根道は、約30分ほども続く。
途中に土橋があり、堀切もはっきり残っている。
尾根道が終わると、そこから頂上までは10分ほどである。城下からは合計40分程掛かった。標高321m、比高差約300mもあるらしい。
よくもまあ、これだけ高い所に城を築いたものである。秀吉に落とされた此隅山城が強烈なトラウマになっていたのだろうか?
頂上近くにには、結構大掛かりな石垣が残っている。石垣で構成された曲輪は何段にもなっているようで、最も高い所が本丸跡のようであったが、
草茫々で途中で諦めた。そこからはるか眼下に拡がる出石の町並みとその向こうに広がる田園風景と山並みの眺望は素晴らしい。
それらの曲輪(本丸)と大堀切を隔てて、もう一つ大きな土台があり、その上の曲輪跡(千畳敷)は、これだけ高い山の頂上には珍しいほど広く、
長さ125m、幅45mもあるとのことで、兵の集合や物資の貯蔵場と考えられているとのことである。
これだけ急な登城道である。当然、帰りも危険このうえなく膝がガクガクである。しかし、何か達成感のようなものが感じられたものの、
本丸へ到達できなかったのはやはり・・・(無念)
(2006/09/02登城して)
ギャラリー
山麓の出石城址前から見上げる有子山城址
㊧有子山城石碑、㊨岩だらけの登城道
出石城の最高所にある稲荷曲輪脇のすぐ上に石碑があった。そして、そこが有子山城への登城道入口である。
登り始めていきなり岩だらけのゴツゴツして歩きにくい登城道が待ち構えていた。
急峻な登城道
「急峻」なんてものではない。実際は30度から35度くらいのものであろうが、
70度はあるように感じるほぼ直線の強烈な岩盤の尾根道(両側を崖状に削られているのでは?その幅約3~5m程)を登っていく。
しかもその尾根道は、約30分ほども続く。
㊧土橋、㊨竪堀
20分近く登りクタクタに疲れきった頃に、土橋が現れる。その両側には竪堀がはっきりと残っていた。そして、
そこからの登城道は更に勾配がきつくなり10分ほど続く。
最初に出会った石垣
30分も続く急峻な坂道を登りきると、しばらく帯曲輪跡のような道を歩く。そしてその後、
九十九折の坂道を登って行くと苔むした石垣に出会う。ここで、やっとホッとする。
三の丸石垣
ほぼ登りきった所に、三の丸の石垣がある。それにしても、よくまあ、こんな所に石垣を積んだものだ。
当時の人夫さんもたまったものじゃないなあ!! しかし、石垣とその向こうに見える山並みの光景は素晴らしいです。
本丸方面は・・・(汗)
三の丸から藪こぎをしながら本丸方面へ登って行ったが、もう無理(泣)。それにしてもスゴイ藪だ!
本丸手前からの眺望
本丸到達を諦めて振り返り、眼下を見下ろすと、出石の町並みと田園と山並みの素晴らしい光景が広がっていた。
三の丸から本丸にかけての石垣
三の丸の東南側には、30mほど石垣が続く。
本丸から三の丸にかけての石垣
本丸下あたりの石垣はかなり崩れてきてはいるが、ここから三の丸方面の石垣は見応えがある。
大堀切
本丸と千畳敷を断ち切る大堀切。この大掛かりな堀切は実に見事である。こちらからも本丸へ向かったが、
やはりギブアップ!!
千畳敷土台
千畳敷の土台が見事に残っている。
千畳敷
こんな山の上に!と驚くほどの広い平坦地が。長さ125m、幅45mもあり、
兵の集合や物資の貯蔵場と考えられているとのことである。そしてそこは、低い石垣で段差がついていた。
かなり大きな建物でも建っていたのであろうか?