近江 黒川氏城(甲賀市土山町)

主郭西下の腰曲輪の枡形虎口前に築かれた石段と石垣

六角氏に属した黒川氏の城、甲賀第二の規模と縄張を誇り、良好に遺構が残る

所在地

滋賀県甲賀市土山町鮎河小字坂尻
【アクセス】
鮎河の集落から県道9号線を南進すると、途中県道507号線と交わる。 そこから県道507号線を約200mほど南進すると左手に小さな説明板(車に乗っていると見落としやすい)がある。 その脇から直登すると約10分ほどで主郭にたどり着くが、話によると夏場にくると必ず山ヒルにやられるようなので冬場の登城をお薦めする。
尚、説明板のところから、さらに3~400mほど南進した左側に駐車スペースがある。

形状

平山城(標高390m、比高約80m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、石段、空堀(横堀、堀切)、虎口、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2010/11/27

歴史等

黒川氏城は、永禄年間(1558~69)に黒川玄蕃佐が築いた城である。
黒川氏は、観音寺城主近江守護六角氏に属し、 長享・明応(1487~1501)の頃しばしば戦功をたてた。黒川久内は、長享の乱(1487)の功により、黒川・黒滝を領有し、 以後子孫世襲する。
黒川玄蕃佐に至り、黒川氏城主として、山女原・笹路・黒川・黒滝・鮎河の松尾川東方を支配し、その子八左衛門に伝える。
天正13年(1585)、豊臣秀吉に紀伊川堤防修築工事の責任を問われ、黒川を除いた地域を没収され、 築城以来20余年にして廃城となったとされ、「甲賀郡志」も、天正13年(1585)に黒川氏滅亡とともに廃墟となったと記している。
しかし、旗本となった黒川氏の家譜を載せる「寛政重修緒家譜」によれば、黒川玄蕃佐盛治は六角氏からのち織田信長に仕え、徳川家康の 「伊賀越え」にあたっては弟を人質として出し、その後駿府で閑居していた。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時には東軍に属し、 戦後甲賀郡内において800石余を賜り、その子盛至の時、咎めを受けて一旦改易されるが、その後再度旧知を復せられたとある。
『「現地説明板」、「甲賀市史・第7巻甲賀の城」、「近江の山城ベスト50を歩く・中井均著(サンライズ出版刊)」参照』

現況・登城記・感想等

これまで見てきた甲賀の城は、土塁に囲まれた方形単郭の居館規模の城が多いが、黒川氏城は大規模であると同時に、縄張も複雑である。
城域は、東西約220m、南北約330mに及び、その規模は、甲賀郡内では水口岡山城に次ぐという。
縄張の構成は、山頂に主郭を置き、丘陵一帯に曲輪を配しており、山頂部の曲輪群と山麓の家臣団屋敷群の大きく2つに分けられる。
主郭は30m×40mほどの方形で、周囲は高さ2m弱の土塁で囲まれている。土塁内側は石を階段状に積み上げた雁木とし、 2ヶ所ある虎口は石垣によって固められている。
主郭から西側の腰曲輪へは石段が築かれている。この石段を降りると、主郭までの切岸の高さは約7~8mはあるであろう。
そして、主郭南側、さらにその南側の大規模な堀切が見事である。
主郭部を見終わった後、山麓の家臣団屋敷跡へ向かったら、屋敷地の土塁上でイノシシのウンチらしきものを見つけてしまったので、 家臣団屋敷群は、あまりゆっくり見ることは出来なかったが、これまた周囲が土塁で囲まれているようであった。その中で、 主郭北西下の屋敷跡虎口はしっかりした石垣で固められていた。
黒川氏城の築城時期を、今までは、黒川氏が改易された天正13年(1585)以前に求められることが多かったが、今では、 城の規模や縄張りの複雑さから、現状遺構は、黒川氏が単独で築城したものではなく、黒川氏が織田氏に臣従してから織田氏、 その後は豊臣氏の甲賀支配の拠点として改修されたか、あるいは関ヶ原合戦後に築かれたものであると考えるのが一般的なようである。
いずれにしても、甲賀郡内では、最も見応えのある城だと言えるだろう。
(2010/11/27登城して)

ギャラリー

登城口?に立つ説明板
鮎河の集落から県道9号線を南進すると、途中県道507号線と交わる。 そこから県道507号線を約200mほど南進すると左手に小さな説明板(下写真)がある。 その脇から直登すると約10分ほどで主郭にたどり着く。

主郭西下の腰曲輪の枡形虎口前に築かれた石段と石垣
説明板脇から、幾つもの腰曲輪を見ながら直登してくると、10分弱で、この石段へ出る。 石段を登ったところは枡形虎口になっていたようだ。

城址碑
上写真の石段を登り、主郭へ登っていくと石積みの崩れた石が転がっている中に城址碑が立っている。 このすぐ上が主郭である。

主郭西側の虎口
主郭虎口は、石垣によって固められている。この写真は虎口南側の土塁上から撮ったもので、 虎口の真ん中に大木が倒れていた。

主郭①
主郭西側の虎口から見たもので、左奥に主郭大手虎口が見える。

主郭②
主郭は30m×40mほどの方形で、周囲は高さ2m弱の土塁で囲まれている。

主郭土塁
土塁内側は石を階段状に積み上げた雁木としている。

主郭大手虎口
主郭大手虎口は北側にある。こちらの虎口も石垣で固められていたようだが、 かなり崩れてしまって石が散乱状態だ。

主郭南側の堀切
主郭の土塁上を廻ると、南側下に規模の大きな堀切が見える。㊧は堀底から撮影、㊨は主郭土塁上から撮影。 本物はスゴイの一言であるが、写真にすると、その迫力が伝えられないのが残念だ。

さらに南側の堀切
主郭南側の堀切の、さらに南側も大規模な堀切で断ち切られている。こちらの方が、もっとスゴイが・・・。 やはり写真だと・・・・(泣)。

主郭南西部の空堀
主郭周囲は空堀で囲まれている。奥に見えるのは、主郭南側の堀切(2段上写真)。

主郭北西部下の空堀

家臣団屋敷
家臣団屋敷跡は、屋敷地の土塁上(この写真を撮った所)で、イノシシのウンチらしきもの(しかも新しそう) を見つけてしまったので、あまりゆっくり見ることは出来なかったが、これまた周囲が土塁で囲まれているようであった。この屋敷地は、 主郭北西下の屋敷地である。

家臣団屋敷の虎口
この虎口は、上写真屋敷地の東側にある虎口で、ここも石垣で固められている。 ここから右前方や右には空堀が複雑にめぐり、多くの屋敷地があるようだったが、今日は一人での登城でもあり、 イノシシのウンチを見たからには、早々に退散(汗)。

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