諫早陣屋跡(諫早高校)北西隅の広場に建つ「諫早家頌徳碑」
伊佐早の西郷氏の築城、秀吉に没収され竜造寺へ、そして鍋島へと移行
別名
高城、亀城
所在地
長崎県諫早市高城町
形状
平山城
現状・遺構等
現状:諫早公園
遺構等:曲輪跡、石垣?、堀?
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
1999/05/22
歴史等
戦国時代に伊佐早を支配した西郷尚善が、文明年間(1469~86)に築いたものである。ところが、尚善の孫の信尚の時代に、
豊臣秀吉の九州征伐に参加しなかったという理由で、天正15年(1587)所領没収となり、伊佐早は佐賀の竜造寺家晴に与えられた。
二代直孝の時に、竜造寺の名を諫早に改めたが、佐賀藩の実権が、
竜造寺から鍋島へと移行する中で、藩政出費に耐え切れずに直孝は鍋島氏の国家老になった。
その後、元和7年(1621)には、直孝の竜造寺一門四家の三部上地などがあり、佐賀にあって家老職だった直孝が、
大組の与頭兼務を解かれた。以後、鍋島の軍事力は譜代の有力家臣を与頭として構成され、着々と藩力は固められていくが、諫早の方は、
五代目の茂門のときに、藩の財政が苦しくなり、城郭さえ維持できなくなり、城は壊された。そして藩庁が現諫早高校のところに移った。
『参考:日本の名城・古城辞典』
現況・登城記・感想等
仕事の関係ですぐ近くにしょっちゅう来ていたが、どれが諫早城址かは分からなかった。この城をはじめとして、
他の長崎県内の城もそうであるが、長崎在住時代に登城しないで、北海道へ転勤してから登城するというのも変な感じではあるが、
今回あらためて捜したら、諫早のシンボル「眼鏡橋」の背後の山が城址であった。
山頂部が本丸跡らしいので、歩き回ったがそれらしき形跡はない。ただ、その本丸跡には、とてつもなく大きな楠木があり驚いた。諫早の近く、
長崎市内の神社や寺の境内にも、非常に大きな楠木が多いが、これほど大きいのはさすがに見ない。
(1999/05/22登城して)
ギャラリー
本丸跡の巨大な楠木
山麓の眼鏡橋(長崎時代の友人達と)
天保10年(1839)建設、それまで大きな橋がなかった本明川に、当時の領主・領民が「永久不壊の橋」
の悲願を込めて本明川に架けた石造りのアーチ橋である。昭和32年の水害後、諫早公園に移築されたこの眼鏡橋は、
石橋では日本で最初に重要文化財に指定された。長崎で眼鏡橋といえば長崎市の眼鏡橋が有名であるが、
私としてはこちらの眼鏡橋のほうが建造物としても、景観としても素晴らしいと思う。