南部氏一族四戸氏の居城、九戸政実と親族関係が。九戸の乱後廃城に
所在地
岩手県二戸市金田一字館(長寿寺・八坂神社裏)
長寿寺:二戸市金田一字館74、TEL0195-27-3018)
形状
平山城(台城)
現状・遺構
現状:墓地、畑
遺構等:ベコ石?、説明板
満足度(10点満点)
1点
訪城日
2007/08/13
歴史等
四戸城は上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている。
南部氏の一族とされる四戸氏の居城であったが、四戸氏がいつ頃から当地に居住したのかは良く分かっていない。
戦国時代末期、城主四戸宗泰の妹は、九戸城主九戸政実の妻で、
また宗泰の妻は政実の叔母であった。四戸氏は、二戸地方で絶大な勢力を持っていた九戸氏とは親しい間柄であった。
しかし、天正19年(1591)の九戸の戦い(九戸の乱:九戸城参照)
を前に、四戸宗光(宗泰の嫡子で当時城主)は、弟金次郎の流言のため秋田へ逃れ、病死した。そのため、
四戸城は九戸方に対する南部信直方の居城となり、九戸の戦いの後、廃城となった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
長寿寺及び八坂神社の裏の山だということは分かっていたが登り口が分からず、その境内や墓地をウロウロしてしまった。最後に、
ここだと思われる登り口があり、登り切ると広大な削平地へと出た。手前が墓地になっており、奥は畑、その奥は高い山があった。
ここが城址だと確信はしたものの、念のためにと、墓参りに来ていた年配の方に尋ねたら、「四戸城なんて無い。九戸城ならあるけど、
歩いて行くのは無理だ」と言われた。
「地元の人がこれだからなあ!?」と、それ以上聞くのは止めて、とにかく広い畑を左(南)側の方から歩き回った。
それにしても、この削平地は広い、サッカーコートが何面とれるだろう!? 7~8面はゆうに取れるのでは?などと考えながら歩き回った。左
(南)方面には城跡の痕跡さえ見つからなかった。そして右(北)方面へと戻ると、墓地が切れた辺りに、大きな石がでんと座っており、
そこに説明板があった。素晴らしい遺構に出会った訳ではないが、ほっとしたというか嬉しかった。
説明板によると、「四戸城は上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている」とあるが、そんなの全く分からない。只々、
だだっ広い四戸城の郭跡でした。
(2007/08/12登城して)
ギャラリー
城址(長寿寺裏山)を見上げる(奥の高い山ではない)
やっと城址へ到着
念のためにと、墓参りに来ていた年配の方に尋ねたら、「四戸城なんて無い。九戸城ならあるけど、
歩いて行くのは無理だ」と言われた。「地元の人がこれだからなあ!?」と、それ以上聞くのは止めて、とにかく広い畑を左(南)
側の方から歩き回った。
だだっ広い郭跡
それにしても、この削平地は広い、サッカーコートが何面とれるだろう!? 7~8面はゆうに取れるのでは?
などと考えながら歩き回った。
ベコ石と説明板
だだっ広い郭跡を歩き廻って、墓地が切れた辺りに、や~っと、でんと座った大きな石と説明板を見つけた~!!
素晴らしい遺構に出会った訳ではないが、ほっとしたというか嬉しかった~!!