幕末、幕命により西蝦夷地警備の為に荘内藩が浜益に築造した陣屋
所在地
北海道石狩市浜益区川下(八幡神社の東側)
形状
陣屋
現状・遺構
現状:畑、雑木林、藪
遺構等:土塁、空堀、復元?大手門、説明板
満足度(10点満点)
3点
訪城日
2008/10/17
歴史等
安政6年(1859)、幕府は蝦夷地を荘内・秋田・仙台・南部・津軽・会津の奥州6藩に分け与えその警備を命じた。
荘内藩は日本海に面する増毛を除く西海岸一帯(留萌・苫前・天塩など)40余里に及ぶ地域を拝領した。
翌万延元年(1860)、家老松平舎人を総奉行として現地調査を行ない意見書を提出した。
この調査書をもとに、2代目総奉行酒井玄番了明が赴任し、警備・開拓の本陣を「ハママシケ(浜益)」に設けた。奉行所をはじめ寺、神社、
長屋などを建て集落が作られた。一行は永住計画に基づき各種の職人・農民を集め、資材・
人員の運搬に蝦夷地渡航用に2隻の弁財船も建造され往復した。
この時、黄金川からこの場所まで水路を設けたが、その費用が金千両を要したことから「千両堀」と称され現在も残っている。
その後、戊辰戦争が勃発したことにより事態が変わり慶応4年(1868)には引き揚げ作業が始まり、
7年に及ぶ歳月と莫大な費用をかけた荘内藩蝦夷地拝領地の警備・開拓は終わった。
(現地説明板より)
現況・登城記・感想等
平成の大合併により、札幌の近郊・石狩市浜益区になったとはいえ、「浜益」
は札幌の中心街から車でたっぷり1時間以上は掛かる鄙びた漁村である。
かつては「浜益」と「増毛」を総称して「マシケ場所」と呼ばれ、松前藩独特の場所請負制度があったが、のちにこの場所を二分し、北方を増毛
(現増毛町)、従来の益毛を浜益毛(のちに浜益)としたという。
「ハママシケ陣屋」跡の場所は、村社八幡神社の東側にあるが、道も狭く見落としやすいので、川下地区に入ったら地元の方に尋ねるのが賢明だ。
八幡神社の前の道を右(東)へと進むと、冠木門風の復元?(模擬?)大手門へと出る。その両側には良好に?土塁が残っている。
また、随所?に「足軽長屋跡」等々の標柱が立ち、往時を偲ばせてくれるかな?尤も、
標柱に書かれた字は伸び放題の藪に隠れて一部しか見えない。
陣屋跡は、原野の中に一部だけ段々畑が開墾されていて、まるで開拓時代の北海道を彷彿とさせるような光景であると同時に、
ちょっとした平山城跡を思い起こさせてくれるような趣きもある。
せめて、もう少しだけでも整備がされていたら、結構見応えのある名跡になるのではないだろうか?
昭和63年に国指定史跡になっているというのにねえ!残念だ!
尚、説明板によると「千両堀が現在も残っている」とあったが、分からなかった。
(2008/10/17訪れて)
ギャラリー
村社八幡神社
鳥居の手前左側の空地に駐車し、右(東)へと進むと左側に土塁が見え、その向こうに冠木門が見えて来る。
土塁
この土塁(高さ2mほど)は結構良好に残っている。土塁の向こう(写真中央やや右側)に冠木門が見える。
大手門
復元なのか模擬なのか分からないが、大手門が建てられ、説明板が設置されている。
門の両側には土塁が良好に残っている。この辺りだけが整備されている。
門を入ると、両側に土塁があり、左側土塁上に標柱(左写真左土塁奥上)が立っているが、
強烈な熊笹の藪で、「足軽長」までしか見えないが、「足軽長屋跡」と書かれている。
陣屋内から大手門を
門を入り振返ると、門の向こうに浜益の町並みと海が見え、ここがやや高台になっていることに気が付く。
土塁もなかなか立派なものだ。ただ、藪が!!
段曲輪
さらに奥へと入って行くと、原野の中に段々畑が見えて来る。おそらく、
段曲輪跡を畑として利用しているのだろう。畑の部分以外はまさに原野で、強烈な藪になっている。右の方に標柱らしきものを見付けたので、
近寄ってみたが・・・。
標柱「元人長・・・?」
あまりの藪で、これ以上入っていく勇気がなかった。写真はかなりズームアップして撮ったのだが・・・。
【海の幸】
浜益では、やはり海の幸だろう。増毛の
「まつくら(津軽藩増毛勤番越年陣屋参照)」のような有名な店はないが、海岸道路端の店(みさき)に入って昼食。季節柄、
ウニがないので、私は「刺身定食(1,100円)、家内は「イクラ丼(1,300円)」を・・・。刺身は、ヒラメ、ソイ、アワビ、
ほっき貝だ。ソイとヒラメが絶品だった。また、醤油漬けのイクラも少し食べたが、これまた絶品。札幌在住時代が懐かしい。