秋田藩増毛元陣屋(増毛町)

元陣屋跡に建つ陣屋風(番屋風?)外観の「総合交流施設・元陣屋」

幕末、幕命により西蝦夷地警備の為に秋田藩が増毛に築造した陣屋

所在地

北海道増毛郡増毛町永寿町4丁目49番地(元陣屋)他
元陣屋:電話0164-53-3522

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 市街地(増毛町総合交流促進施設「元陣屋」他)
【遺構等】 復元井戸(復元?)、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2008/10/17

歴史等

安政2年(1855)、幕府は秋田・仙台・南部・津軽・松前の各藩に北方警備を命じた。
秋田藩には、「西エゾ地カムイ岬よりシレトコ迄総体並に外島一円持場の事」という命令が出された。
同3年(1856)3月、士分・足軽小者等三百数十名が秋田本藩を出発し、同年5月11日に陸路・海路を合せ全員増毛の地へ到着し、同時に元陣屋の築造に着手した。18棟の兵舎をはじめ28棟からなる建物を配置した。後になってから周囲に堀をめぐらし、総建坪は1,160坪にもなった。陣屋が完成したのは安政6年(1859)頃であった。
台場は現在の古茶内「きまる岬」と現在の灯台の2箇所に築き、大砲を備えた。
宗谷と樺太(シラヌシ、クシュンコタン)には出張(でばり)陣屋を設け半年交代とし、増毛詰は1年交代で警備にあたった。
勤皇佐幕の両論が活発になり、世の中が騒然としはじめた頃、本国秋田では数年にわたり災害が続き、百姓一揆も起こった。そのため、秋田藩は蝦夷地警備の免除を願い出たが、なかなか聞き入れてもらえなかった。慶応3年(1867)3月、度重なる陳情により幕府は秋田藩の警備を免じ、秋田藩が警備していた増毛や宗谷は再び幕府の土地として上知された。
明治にはいり、この陣屋は山口藩増毛出張所役人の住居として利用され、明治30年頃まで陣屋として残っていた。
『「現地説明板」、「元陣屋内展示」、「元陣屋パンフレット」より』

現況・登城記・感想等

秋田藩増毛元陣屋は、今では市街地化され増毛の町の中に埋もれてしまっているが、元陣屋のあった中心部に陣屋風(番屋風と言った方が正確かな?)外観の「総合交流施設・元陣屋」が建てられ、その入口前には復元?井戸がある。
施設内には資料展示室や図書室、映像体験室等々が充実しており、結構楽しめる。
増毛駅の裏山にある灯台の辺りが第一台場で、灯台の一段下の台地に標柱が立っている。ここから増毛の浜の方面の眺望はよく、大砲の設置場所としても最適であっただろうことが窺い知れる。
第二台場は暑寒別川河口左岸にある陣屋展望台の辺りである。まさに海端の台地上にあるが、ここだけが海岸線から少し海へ突き出ていて、台場跡であることも納得できる。そこには大砲のレプリカが置かれ、標柱・説明板が設置されている。
(2008/10/17訪れて)

ギャラリー

元陣屋地割絵図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
増毛元陣屋

総合交流促進施設「元陣屋」前の説明板と復元?井戸
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元陣屋内
施設内には資料展示室や図書室、映像体験室等々が充実しており、結構楽しめる。
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増毛駅と灯台(第一台場)
写真左上のピンクと白の灯台の辺りが第一台場跡です。増毛は留萌本線の終点駅で、小さな無人駅です。何度か訪れたことがありますが、電車を見たことがありません。何とも、のどかな風景が私は大好きですが、留萌-増毛間が廃線の危機にあるのが心配です。
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第一台場
跡地には「秋田藩元陣屋第一台場(砲塁並狼火台)跡」の標柱が立つ。遺構は全く残ってないが、増毛の浜の方面の眺望はよく、大砲の設置場所としても最適であっただろうことが窺い知れる。

第二台場
第二台場は海端台地上にあるが、ここだけが海岸線から少し海へ突き出ていて、台場跡であることが納得できる。
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第二台場の大砲のレプリカ・標柱・説明板
説明板によると、昭和45年、国道231号線の道路整備の際に出土した砲座から確認されたこの台場は、安政4年(1857)5月古茶内三吉神社岬台地に和製大砲二門の砲塁を築き、他に見張台、狼煙台を設け海上よりの防衛に当たっていたそうだ。
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【寿司のまつくら】
増毛には、超特大の「ジャンボ生ちらし」が有名な鮨屋さん「まつくら」がある。「生ちらし」は、うに・かに・いくら・とびっこ・甘えび・いか・帆立・あわび等々10種類近くの地元の素材が盛られている。

「まつくら」のうに丼
私は毎回、夏場に行く為、ついつい「うに丼」を食べてしまうが、この「うに丼」が最高に美味しく、お薦めである。

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