磐城 守山城(郡山市)

二の丸と三の丸間の堀(藪で石垣が見えない)

秀吉の奥州仕置後、会津蒲生氏の支城として築かれた

所在地

福島県郡山市田村町守山字三の丸、守山八幡神社
守山小学校の東のこんもりした小山の上が本丸跡で、守山八幡神社が鎮座している。守山小学校は三の丸跡にある。
守山小学校:田村町守山字三の丸1、電話:024-955-3105

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】本丸(守山八幡神社)、二の丸(畑)、三の丸(守山小学校他)、出丸(市街地)
【遺構等】曲輪、土塁、石垣、堀、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/09/30

歴史等

天正18年(1590)、豊臣秀吉により、蒲生氏郷が、伊勢松坂より会津42万石に移封された。さらに、同19年(1591)の再仕置により田村郡も加増された。
田村郡における支城は当初三春城であり、田丸具直が城代として入城したが、年不祥であるが田村郡の支城が三春城から守山城に移された。
文禄4年(1595)に蒲生氏郷が没すると、子の秀行は秀吉より、領内の米沢白河、田村、二本松白石、津川、若松の7城以外の破却を命ぜられている。この時の田村城が三春城か守山城かは不明である。
慶長3年(1598)に上杉景勝が120万石で会津に封ぜられると、守山城には2万石で須田長義、1万石で本庄繁長、2千100石で竹俣利綱が相次いで城代として入れ置かれた。
慶長5年(1600)に蒲生秀行が再び会津に入部すると、守山城には4万5千石で蒲生郷成が城代となった。
ところで、慶長14年(1609)に郷成が出奔し、浪人となるので、守山城の石垣は、天正19年(1591)から慶長14年(1609)までの間に構築されたと考えられる。
その後、元和元年(1615)の一国一城令により、守山城は破却されたと考えられる。
『「現地説明板」、「歴史読本 織田・豊臣の城を歩く(新人物往来社刊)」より』

現況・登城記・感想等

守山城は、私の好きな武将「蒲生氏郷」の家臣・蒲生郷成により築城されたもので、 平成12年から15年にかけて第1次~第4次発掘調査が行われ、堀跡や石垣のほか、礎石建物跡などが確認されたということで、 以前から是非登城したいと思っていた。
尤も、今では市街地に近いということもあり、全体に破壊の手が進んでおり、遺構の残存状況がよいとは言えないが・・・。

守山城は阿武隈川水系の黒石川が南から東を廻って北へ流れる湾曲部の丘陵全域を城域とし、こんもりと盛り上がった小山の上が本丸跡で守山八幡神社が鎮座し、その西側一段下がった畑の部分が二ノ丸跡で、更にその西側にある守山小学校の敷地が三の丸跡である。
また、今では完全に市街地となっている北側には出丸が設けられていたという。

そんな中、当城址の最大の見どころは、何と言っても二の丸と三の丸間の堀跡だろう。その堀は二の丸側に高石垣が残り、深さ約6m、堀上部幅約25mあり、今も長さ約55m分が残っている。
ただ残念ながら雑草がまだまだ元気な季節で、堀は草に覆われて高石垣は全く見えなかった。それでも、充分見応えがあった。とはいえ少し残念、否、凄く残念(;>_<;)。
地元の方によると、その堀の向こうにも遺構がよく残っているとのことであったが、畑になっている二の丸も、 強烈な藪の堀も入って行くわけにいかず、これまた断念(/。ヽ)。
一方、堀跡の東側にある小山の上(丘陵最高所)に守山八幡神社(城山八幡ともいう)が鎮座している本丸跡へ石段を登って行くと、 そこはなかなか趣きのある空間で往時を偲ばせてくれるようだ。そして本丸周囲には低くなってはいるが土塁も確認できた。
かえすがえすも、生茂る雑草で、堀と石垣が隠れてしまっているのが残念だった。
(2008/09/30登城して)

ギャラリー

守山城縄張略図(余湖くんのホームページより)
守山城は阿武隈川水系の黒石川が南から東を廻って北へ流れる湾曲部の丘陵全域を城域とし、こんもりと盛り上がった小山の上が本丸跡で守山八幡神社が鎮座し、その西側一段下がった畑の部分が二ノ丸跡で、更にその西側にある守山小学校の敷地が三の丸跡である。また、今では完全に市街地となっている北側には出丸が設けられていたという。
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二の丸と三の丸間の堀跡
守山城址の最大の見どころは、何と言っても二の丸と三の丸間の堀跡だろう。その堀は二の丸側に高石垣が残り、深さ約6m、堀上部幅約25mあり、今も長さ約55m分が残っている。ただ残念ながら雑草がまだまだ元気な季節で、堀は草に覆われて高石垣は全く見えなかった。それでも、充分見応えがあった。とはいえ少し残念、否、凄く残念(;>_<;)。
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草に覆われてしまっている二の丸側の高石垣
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二の丸と三の丸間の堀の脇から本丸を
堀のところには説明板が設置されている。堀の向こう側が二の丸跡で、今は畑になっている。正面の小山が本丸。
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本丸跡(守山八幡神社)への石段と鳥居
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本丸切岸
さして高くないとはいえ、本丸周囲の切岸はなかなか急峻だ。
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本丸跡に鎮座する守山八幡神社(城山八幡ともいう)
本丸跡に入ると、そこは何とも云えず趣きのある空間で、往時を偲ばせてくれるようだった。
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本丸周囲を囲む土塁
本丸周囲の土塁も低くなってはいるもののよく残っている。
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二の丸跡は広~い畑に
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三の丸跡は大部分が守山小学校の敷地に
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コメント

松川(2011/02/11)

私は、現在は東京で暮らしていますが、守山で育った者です。守山小学校にも通っていました。守山小学校の体育館をご存知でしたでしょうか?
実は、貴殿は石垣が見られずに残念とされていますが、体育館の床下を除いてみるとなんと石垣があったのです。ここは城あとだったのだと当時知ったのでした。今でも残っていると思います。機会があったら覗いてみてくた゜さい。しっかりした石垣が見られますよ。神社は本丸のようですね。よく遊びました。二の丸付近には、畑が点在して民家もありましたが、三の丸付近に小学校プールがあり、たしか丘陵っぽくなっていたような気がしています。
守山の町は、道が鍵状になっていて、城に攻め入られないように工夫された構図なのだとよく言われました。小学校のスクールマークである校章は、徳川の葵の紋であります。水戸黄門みたいだなぁと歴史を感じたものでした。昔、守山には、松川陣屋というのがあったようです。私の姓は松川ですが、松川一族は守山地域に親戚筋が存在していますが、そうした関係が何かあるのかはわかりません。

タクジロー(2011/02/13)

松川さま
詳細な情報をありがとうございます。
3月頃に再登城してみたいと思います。
その時に小学校の方にお願いして体育館の床下の石垣も見せて戴こうと思います。
また、松川陣屋跡へも行こうと思います。
ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

(2011/02/23)

小学校の体育館は今建て直している最中です。中断期間があった模様(何らかの発見?)ですが、地盤はコンクリートで固められ、建物ももうできているみたいです。

松川(2011/02/26)

なんとも残念ですね。しかし、なんらかの発見は気になるところですね。実家に電話したら、確かに、体育館は工事されていたようです。大工事だった模様です。

タクジロー(2011/02/28)

松川様
情報ありがとうございます。
石垣は、他の場所に移築でもされたのでしょうかねえ?
コンクリートで固められてしまったとは、それにしても残念です。

青馬(2012/03/16)

私も守山小学校出身です。とても懐かしい景色ですね。私の記憶では、石垣は草が生い茂っていない季節ははっきりと「お城の石垣」と子供でも分かるようなものでした。ここの八幡神社は、なぜかご神体として蛇が祭られていたと思います。気味の悪い神社で、まるで大蛇がぐるぐると巻きついたような痕がある大木、大人でも梯子を掛けないと届かないような上方に釘打たれた藁人形とか友達と一緒に見つけました。お供え物が鶏卵だったのも覚えてます。気味が悪かったですが、静かな場所でお気に入りの遊び場所でした。担任の先生に、この神社から見える景色をスケッチさせられたのも覚えてます。懐かしいな~

タクジロー(2012/03/16)

青馬さま
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
当サイトを見て、懐かしく思って戴いて本当に嬉しいです。
また、いろんな思い出や情報をありがとうございます。
かつての同僚が、転勤にて、現在、郡山に住んでいるので、青馬さまのコメントを見て、彼に会いがてら、近いうちに再登城したくなりました。
何てったって、雑草に埋もれていない石垣を見たいですからね。
また、時々、当サイトへのご訪問とコメントをお待ちしてます。

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