岩代 須賀川城(須賀川市)

長松院裏に残る土塁と空堀

代々、鎌倉幕府政所執事を務めた二階堂氏の城

所在地

福島県須賀川市諏訪町(二階堂神社、長松院)
長松院:諏訪町88、電話:0248-73-2032
二階堂神社には駐車場がないが、長松院の墓地に駐車場あり

形状

平山城

現状・遺構

現状:市街地(二階堂神社、長松院他)
遺構等:土塁、空堀、石碑、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2008/09/30

歴史等

二階堂氏は代々、鎌倉幕府の政所の執事を務めた家柄である。
二階堂氏が戦国大名として台頭するのは、12代行続、13代為氏の時代である。
「仙道表鑑」に「鎌倉公方足利持氏の時、奥州岩瀬郡を二階堂行続に恩賜あり、須賀川城を築き在城す」とある。
その後、二階堂為氏が陸奥守護職を務め、岩瀬郡のうち約5万7千石を所領した。為氏は、文安5年(1448)初代城主となって、 城は整備され、その後9代にわたって二階堂氏が城主となり存続した。
しかし、永禄9年(1566)盛義のときに、会津の芦名盛氏に屈し、嫡子盛隆を人質にして服属した。この盛隆は盛氏に愛され、 たまたま子の盛興が死んで嗣子がなかったことから養子に迎えられ、芦名氏18代当主になった。盛隆の子亀王丸が夭折し、その後、 常陸佐竹家から義広が養子に入った。
天正17年(1589)6月、会津の芦名氏を滅ぼした伊達政宗の軍勢は須賀川城にも迫った。この時、須賀川城主は女城主・阿南(おなみ) の方であった。天正9年(1581)盛義が死んだとき、子の盛隆は芦名氏に養子に入っていたので、 やむなく盛義の未亡人阿南の方が城主となっていたのである。
しかし、女の身では伊達軍の猛攻を支えられるはずもなく、あっけなく城は落ちた。
『「現地説明板2箇所(二階堂神社、長松院内土塁横)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』

現況・登城記・感想等

須賀川城は、釈迦堂川南側の台地上に築かれた城で、現在の市街地のほぼ全域がその城域となっていたようだ。
今では、ほとんどが市街地に埋もれてしまっているが、本丸土塁跡に二階堂神社が建ち、神社鳥居横に石碑、石段下に説明板がたっている。
また、長松院の裏にも土塁と空堀が残っている。試掘された後もよく整備、保存がなされ、説明板も設置されている。
他に、長松院のすぐ北の神炊館神社にも土塁と空堀が残っているが、こちらは全く整備がされてないが、 長松院北側の墓地の近くの藪の中に見つけることができる。
(2008/09/30訪れて)

ギャラリー

二階堂氏居城時代の須賀川城と町割り(二階堂神社説明板より)   ~クリックにて拡大画面に~
須賀川城は、釈迦堂川南側の台地上に築かれた城で、現在の市街地のほぼ全域がその城域となっていたようだ。

二階堂神社
須賀川城は今ではほとんどが市街地に埋もれてしまって、その面影を留めているもの所はほとんどないが、 二階堂神社が建つ本丸跡の土塁と長松院と神炊館神社に土塁と堀跡がわずかに残されている。

長松院裏に残る土塁と空堀
平成15年に、土塁と堀の規模・構造を把握する目的で、一部が試掘された。その結果、土塁は基底幅5.7m、 現状の高さ1.6mあったが、当時はもう少し高かったと推定される。
堀跡は、土塁の基底面から対面までの上幅が12.6m、底面までの深さは現在の地表面から2.3m、土塁上端から底面までは約5.5mある。 堀の断面はすり鉢状となっており、容易に昇り降りすることは困難である。当時としても、かなり大規模な土木工事であったと思われる。

神炊館神社に残る土塁と空堀
こちらの土塁と堀跡は、全く手付かずで落城後のままと思われる。

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