岩代 鴫山城(南会津町)

大門(追手門)

長沼氏が築城、秀吉の奥州仕置後、蒲生・上杉氏の大改修で壮大な山城に

読み方

しぎやまじょう

別名

南山城、鶖山(うやま)城、秋山城、田島城

所在地

福島県南会津郡南会津町田島字根小屋、愛宕山地内(田島カトリック暁の星幼稚園の南)
田島カトリック暁の星幼稚園:南会津町田島字根小屋甲4242、電話0241-62-0568

形状

(根小屋式)山城

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、空堀、門跡、井戸、碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2008/10/01

歴史等

源頼朝の奥州攻めに従軍し、その功によって、長沼宗政は会津及び下野に1,200貫文の地を与えられたという。この長沼宗政は俵藤太秀郷の後胤・下野小山政光の子である。
鴫山(しぎやま)城の築城の時期は明らかではないが、南北朝から室町期に長沼氏によって築かれたものとみられる。長沼氏の本貫地は下野国長沼庄であるが、室町中期に至り、本貫地をこの南山の地に移したらしく、この鴫山城に拠って威をふるい、長沼義秀の時代には、芦名氏・山内氏・河原田氏と並んで会津四家と称されるほどであった。
長沼氏は南方の下野・宇都宮氏と勢力争いをつづける一方、北方の会津・芦名氏とも衝突を繰り返していた。しかし、永禄4年(1561)と同9年(1566)の芦名氏との合戦で敗れ、以後は芦名氏の客将として特別待遇を受けるようになった。
しかし、天正17年(1589)の芦名氏と伊達氏の摺上原の戦いでは、当主長沼盛秀は早々と伊達政宗に臣従を誓い、芦名氏から離反した。摺上原の戦いは伊達氏の大勝に終わったが、盛秀は、なおも伊達氏に抵抗する久川城主河原田氏などと交戦を続けて、翌18年(1890)3月に討死した。長沼氏は、その後政宗が旧葛西・大崎領へ国替えとなると長沼一族も南山を離れ、その後は伊達家家臣となった。
天正18年(1590)の秀吉による奥州仕置の後、会津地方は蒲生氏郷の領土となり、鴫山城には小倉作左衛門が6千3百石を与えられ入城し、この時に城郭の大改修普請が実施され、石垣が構築されたと考えられる。
その後、会津が上杉景勝の所領となると南山2万1千石が直江兼続の弟・大国実頼に与えられ、城には栗林肥前守が入城しているそして、徳川家康との緊張関係が憂慮されるに及んで、城郭の修築強化が図られた。
江戸時代になると、会津は再び蒲生秀行の所領となり城主に小倉氏が復帰した。
しかし、元和元年(1615)の一国一城令を契機として鴫山城もその機能を失ったと思われ、寛永4年(1627)会津が加藤嘉明の所領となると代官陣屋が設置されて城は使命を終えた。
『「日本廃城総覧(新人物往来社刊)」、「「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」他より』

現況・登城記・感想等

【鴫山城の構造】
鴫山(しぎやま)城の城域は、南北1.2~1.3kmにも及ぶ広大な山城で、その構造は①詰の城地区、②内城地区、③根小屋・外郭地区に大別することができる。
「詰の城地区」は標高749mの愛宕山山頂を中心に、8ヶ所の曲輪群が北東にかけて階郭状階郭式に連なっている。
「内城地区」は標高596.5mの上千畳曲輪を中心に、下千畳、御平庭、御花畑、複数の曲輪群から成る。内城地区と根小屋地区を包囲するように、東と西側の山稜上には長大な外壁土塁が築かれている。
下千畳の北(下)方には「根小屋地区」の曲輪群(侍屋敷)が階郭状に構えられている。

【登城記(2008/10/01)】
残念ながら、今回は時間の制限もあり「詰の城地区」へは登れず、蒲生氏(城主小倉作左衛門)時代に大改修されたと思われる「内城地区・根小屋地区」の曲輪群と東外壁塁の一部だけしか見て廻れなかった。
しかし、根小屋地区の侍屋敷から内城地区の御平庭、下千畳、上千畳へと至る複数の段曲輪の景観は見事なものであったし、下千畳・上千畳をはじめとする曲輪群や2対の大門石垣、東外壁塁等々も見応え十分だった。また、その登城道散策路も気持ちよかった。
幼稚園の方に許可を得て、幼稚園前の駐車場に車を置いて、いざ登城!
まず、愛宕神社の鳥居を潜って入城すると、すぐ侍屋敷の段曲輪が現れ、右には下千畳の壮大な壁塁、左側には御平庭へと至る段曲輪が見え、いきなり大感激し、その後の登城への期待が大きく膨らんだ。
そこを入って行くと、立派な2対の大門石垣が現れ、手前両側には見事な空堀がある。大門の石垣とその脇の下千畳から上千畳へと続く壁塁の姿も見応え十分だ。
下千畳・上千畳壁塁下に沿って登って行くと、御台清水へと出る。ここから、東(左)は御花畑を通って東外壁へ、西(右)は上千畳、真っ直ぐ登ると詰の城・愛宕山山頂へと行く。
東外壁は二重土塁となり、空堀もある。上千畳は本丸にあたる所だけに、二の丸にあたる下千畳と同様実に広い。
そして、今回の登城の最大のイベント(ハプニング?)は、上千畳の西側下を通り、下千畳へと曲がったその時であった。何と、6~7mの距離のところにカモシカと出逢った。灰色をした動物を見掛けた瞬間、最初は野犬?(ハスキー犬)かと思いドキッとしたが、すぐカモシカだと分かり「カモシカだ!」と声を出してしまった。するとカモシカは、すぐただの一歩で藪の中へ入っていってしまった。写真も撮れずに残念なことをしてしまった(家内は、お尻だけが見えて、一瞬馬だと思ったらしい)。
これだけ廻っただけでも、見応え十分な城址であった。近い内に再登城して、全てを見て廻りたいものだ。
それにしても、戦国期から江戸初期で、しかもこれだけ広い削平地を持つ城址が、頂上部の山城はともかく、官公庁や学校等に利用されずに、しかもこんなに良好に残っているのは奇跡だ!これからも、大事に調査・整備・保存をしていって欲しいものだ。
(2008/10/01登城して)

ギャラリー

【鴫山城絵図】(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
鴫山城絵図

【鴫山城への案内板】
鴫山城への案内板と簡単な説明板が城址の北の方の道路角に立っている。
鴫山城への案内板

【さあ登城】
幼稚園前の駐車場に車を置いて、いざ登城!! まず、愛宕神社の鳥居を潜って入城する。尤も、この辺りは既に根小屋地区である。
登城口

【侍屋敷と下千畳壁塁】
鳥居を潜るとすぐ侍屋敷の段曲輪があり、右前方には下千畳の壮大な壁塁が見える。
侍屋敷と下千畳壁塁

【侍屋敷跡から御平庭に至る段曲輪】
左側には御平庭へと至る段曲輪が見える。私は、段曲輪の光景が何とも好きだ。
段曲輪

【大門(追手門)】
蒲生氏(城主小倉作左衛門)時代に築かれたと思われる巨石を用いた大門の石垣で、門の形態は発掘調査の結果、櫓門(渡り櫓)であったと判明した。また、空堀を渡るのに現在は築土されているが、木橋の時代もあったと考えられるそうだ。
大手門石垣

【大門の西側の空堀】 ~下千畳壁塁(右側)下から撮影~
大門手前の東西の空堀は、大門の虎口で南北に喰い違いをみせ、歪みをつくっている。堀は深さ4m、幅14m程で、長柄槍の戦闘を想定した構造となっている。
西側空堀

【大門の東側の空堀】
東側の空堀には水が溜まっていたが、往時も雨が続いたりすると水が溜まりやすかったのかも? 
東側空堀

【大門石垣と下千畳から上千畳にかけて延びる壁塁】
大門の虎口は、東壁より西に延びて横矢掛りを伴い、内城を囲い込み南の山根に至る。
下千畳上千畳の壁塁

【御平庭】
平庭とは、注進を受ける所の意で、城内の役所があった所。内城大手虎口が開かれ、北側(手前側)に土塁・空堀を設け、南斜面に腰曲輪が巡らされて、政治・軍事上最も重要な曲輪であった。
平庭

【石組井戸】
御平庭の建物遺構と推定される場所から石組井戸が発見された。井戸は掘り込んだ内部を切石で積上げたもので、縦1m、横70cmと小ぶりであるが、丸井戸でなく長方形であるのが特徴。御平庭にjは上方の水手曲輪と土塁で区画されているため、その伏流水脈に掘ったものである。(現地説明板より)
井戸

【御台清水】
下千畳・上千畳壁塁下に沿って登って行くと御台清水へと出る。清水は今なお、こんこんと水が湧き出ている。御台清水の手前は虎口のようになり、左側には小さいながらも土塁(左写真右手前)がある。多分ここには何らかの建物が建っていたのだろう。ここは分岐点になっており、東(写真手前)は御花畑を通って東外壁塁への道、西は上千畳(写真奥)、真っ直ぐ(写真左へ)登ると詰の城・愛宕山山頂へと行く。
御代清水1 御代清水2

御平庭の上(南)から大門を
大門遠景

大門をズームアップ】
大門ズームアップ

【御花畑】
この写真奥上が御花畑であるが、全く整備されていないようで藪の為、入って行く勇気はなかった。
お花畑

【土橋と東壁塁】
御花畑の前を東へと進むと細長い土橋へと出る。その土橋を渡ると、東外壁塁(写真奥)へ出る。
土橋

【東外壁塁】
東外壁塁は比高2重土塁で2重土塁の内側に空堀があるが、写真では見辛いかも。
東外壁塁

【上千畳】
上千畳は本丸にあたる所だけに、二の丸にあたる下千畳と同様、実に広い。
上千畳

【土門跡?&矢倉台跡?】
上千畳の最西端を降りて行くと、土門跡と矢倉台跡の説明板が立っていたので、てっきりここがそうだと思った。また、説明板にあるように、枡形の跡だと言われれば、そのようにも見えるし・・・!? しかし、後で案内板等々と照らし合わせてみると、どう考えても違う。どういうことなのだろう??
土門跡と櫓台

【カモシカに遭遇!!】
さて、上写真の所を北へ歩いて、この下千畳(写真奥壁塁上)西側の土塁と空堀の所へ出た。すると、今日の登城の最大のイベント(ハプニング?)が!! 何と、6~7mの距離のところに「カモシカ」と出会った。灰色をした動物を見掛けた瞬間、最初は野犬?(ハスキー犬)かと思いドキッとしたが、すぐカモシカだと分かり「カモシカだ!」と声を出してしまった。するとカモシカは、ただの一歩で写真左側の藪の中へ入っていってしまった。写真も撮れずに残念なことをしてしまった(家内は、お尻だけが見えて、一瞬馬だと思ったらしい)。この写真にカモシカが写っていたらかっこいいんだけどなあ!!
カモシカに出逢う

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