空堀跡?
三河吉良氏の後裔の城、戦国時代は後北条氏に服属
所在地
東京都世田谷区豪徳寺2丁目1-4、世田谷城址公園
形状
平城
現状・遺構等
現状:世田谷城址公園、豪徳寺、宅地
遺構等:土塁?、空堀?、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2001/08/25
歴史等
世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。
14世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。
吉良氏は清和源氏・足利氏の氏族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・
吉良荘地頭となった。その三男義継は吉良荘東条を譲られ、
東条吉良氏の祖となった。
南北朝時代、4代貞家は奥州管領として東国に赴いた。貞家の子治家の代になり、奥州吉良氏は衰亡するが、治家は足利基氏に招かれ、
上野国飽間郷に移住することで勢力を回復する。さらにその後、武蔵国世田谷に移った。
15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、
享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。
この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、
世田谷城も廃城となった。
世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、
16世紀前半に防御の為、大改築がなされた事が窺える。
『「現地説明板」、「東条城址説明板」より』
感想等
土塁と空堀らしきものが残っているだけではあるが、東京世田谷の一等地に、こんな森が残されているのは素晴らしい。
また、隣にある豪徳寺ももともとは城址らしい。
(2001/08/25訪城後)
ギャラリー
世田谷城址公園の石碑
