武蔵 世田谷城(世田谷区)

世田谷城址公園北西部の二重の土塁と空堀

三河吉良氏の後裔の城、戦国時代は後北条氏に服属

所在地

東京都世田谷区豪徳寺2丁目1-4、世田谷城址公園

形状

平城

現状・遺構等

現状:世田谷城址公園、豪徳寺、宅地
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2001/08/25
2011/01/12

歴史等

世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。
貞治5年(1366)に吉良治家によって築かれたといわれているが、定かではない。永和2年(1376) に吉良治家が鎌倉八幡宮に宛てた文書から、遅くとも14世紀後半にはこの地に領地を持っていたことが分かっている。
吉良氏は清和源氏・足利氏の氏族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・ 吉良荘地頭となった。その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。
南北朝時代、4代貞家は奥州管領として東国に赴いた。貞家の子治家の代になり、奥州吉良氏は衰亡するが、治家は足利基氏に招かれ、 上野国飽間郷に移住することで勢力を回復する。さらにその後、武蔵国世田谷に移った。
応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の一族として諸侯から一目置かれる存在であった。また、 15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰で江戸城の太田道灌と同盟関係を結び、 武蔵国の中心勢力として繁栄した。
その後、吉良頼康の代には、後北条氏と縁戚関係を持つようになるが、天正18年(1590)、 豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏の没落に伴い、世田谷城は廃城になった。
その後、しばらくして当地は彦根藩井伊家の所領となった。
尚、世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、 大改築がなされた事が窺える。
『「現地説明板」、「東条城址説明板」 より』

現況・登城記・感想等

世田谷城は、城郭のほんの僅か一画だけが城址公園となり曲輪・土塁・空堀等が保存されている。
公園周囲は閑静な住宅地であるが、各所に土塁や空堀遺構が点在している。
また、すぐ北側にある豪徳寺は居館跡とされるが、ここにも土塁や空堀が残っている。特に、参道脇には大規模な土塁が良好に残っていた。
都内の高級住宅地ともいえる場所に、これだけ遺構がよく残っているのは驚きとともに感激だ。
また、付近には豪徳寺をはじめ、世田谷吉良氏や世田谷城に関係する勝国寺、世田谷八幡宮、勝光院などがあり、散策コースとしてもお薦めだ。
城とは関係ないが、近くにある松陰神社傍の鰻屋さん「一二三」は、最高に美味い。少なくとも、都内ではダントツだと思う(^^)。
(2011/01/12登城して)

ギャラリー

世田谷城址公園案内図(現地説明板より)

世田谷城城郭構造推定図(現地説明板より)   ~クリックにて拡大画面に~
城址公園北西部にあった説明板の裏側の、この城郭構造推定図を見れば、城址公園は城郭南端の一部に過ぎず、 往時は、現豪徳寺を居館とするかなりの規模を誇る城であったことが分かる。説明板によると、 「城郭の構造としては中央に位置する郭Aは南北約120m、東西約60mの広さで、 本来は南北に開いていたと考えられる台形の土塁に囲まれている。世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としないが、現時点では、 この郭Aを中心として複雑に展開する8箇所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭A~G周辺を非常時の詰城、 北側の豪徳寺部分を吉良氏館と推定し、この2つが一体となって世田谷城を構成していると考えられている。」とある。

世田谷城址公園
公園南東部入口から撮ったもので、石碑と説明板がそれぞれ2基設置されている。 正面の石段上が一段下写真の郭跡。

郭跡

公園北西部の空堀と土塁
この二重の空堀と土塁が、公園内での最大の見どころ。

公園北端の土塁
この公園北端に残る土塁は規模が大きいが、金網で入れないようになっている。この土塁は、 住宅地の中を北東へ延びている。

住宅地の中に土塁が
公園の東側の道を50mほど北上すると、一画だけ空地になっており、そこから立派な土塁が見える。 住宅が密集する中に、この土塁を見付けた時には感激した。


【城址周辺散策】
世田谷城址付近には豪徳寺をはじめ、世田谷吉良氏や世田谷城に関係する勝国寺、世田谷八幡宮、勝光院などがあり、 散策コースとしてもお薦めだ。
【豪徳寺】
豪徳寺の辺りは、吉良氏の居館があったと推定され、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480) に亡くなった伯母の菩提のために弘徳院を建立したと伝えられる。豪徳寺は、この弘徳院を前身とする。寛永10年(1633) 彦根藩主世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。境内には、直孝や直弼等の墓所がある。

(奥の院と土塁跡)
豪徳寺境内には、土塁や空堀跡が各所に残っている。奥の院の周囲にも土塁が残っているが、 ここからは立入り禁止である。ただ、奥の院の西(写真左)の土塁は何とか見える。

(参道脇の土塁)
豪徳寺への参道脇(東側)には大規模な土塁が残っている。塀で隠されているが、写真右奥へと長く延びている。

【世田谷八幡宮】
世田谷八幡宮は、天文15年(1546)、吉良頼康によって創建された神社である。また、 世田谷城西方の守りを固めるための出城としての機能を合わせもっていたとも思われ、比高10mほどの高台に鎮座している。

【勝光院】
勝光院は、天正元年(1573)、吉良氏朝が父頼康の菩提のため、 吉良治家が開基となって創建した龍鳳寺を再興し、頼康の法号である勝光院を寺名としたことに始まるとされる。以後、代々の菩提寺となり、 墓所には、明暦3年(1657)に没した吉良義祇以降、代々の墓が置かれている。

【勝国寺】
勝国寺は、吉良氏5代目の政忠が開基となり、世田谷城の裏手鬼門除けとして創建された。円光院、円乗院、 多聞寺、泉竜寺、善性寺、密蔵院の6ヶ寺を末寺とし、これらは、世田谷城の隠し砦とみられているそうだ。

【鰻・一二三】
城とは関係ないが、近くにある松陰神社傍の鰻屋さん「一二三」は、最高に美味い。少なくとも、 都内ではダントツだと思う(^^)。

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