本郭・二ノ郭間の横矢の掛かかった土塁と堀
古くは畠山重忠の居館、室町期の扇谷・山内両上杉抗争時に山内上杉により再興
所在地
埼玉県比企郡嵐山町菅谷
形状
館
現状・遺構等
現状:史跡公園
遺構等:郭、土塁、堀、井戸、畠山重忠像、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
歴史等
鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」の文治3年(1187)の条によって畠山重忠の居館であったことが知られることから、これ以前に築かれ、
以後、元久2年(1205)に北条氏に二俣川で謀殺されるまで居住していたと推定される館である。
菅谷館のその後の状況は必ずしも明らかではないが、「松蔭私語」によれば、室町時代の扇谷・山内両上杉の抗争に際し、山内上杉によって、
鉢形城とともに再興されたことが知られる。
菅谷城の位置付けを見ると、扇谷の拠点の城
「武蔵松山城」を東端として青島城・菅谷城・小倉城・青山城・腰越城・安戸城と一直線に並び、鉢形城を拠点とする山内方と、
このライン上で対峙していたと考えられ、このラインに北から南へ連なる「鎌倉街道」が菅谷で交差するため、菅谷城は、交通・
軍事上の要所に位置していたのである。
菅谷館をめぐる著名な戦いは、両上杉による覇権争乱の中での大激戦として名高い長享2年(1486)6月の須賀谷原合戦である。このとき、
山内上杉方は大田資康が須賀谷の北平沢寺境内に陣を構え、敵塁に相対していたとあり、
このとき菅谷館は扇谷上杉の陣営として機能していたと考えられる。このような中世の動乱の中では、
この城をめぐって幾多の激戦が繰り広げられたと考えられるが、不思議と、その記録が残されておらず、また城主も不明な不思議な城である。
『日本の史跡6中世(同朋社刊)より』
訪城日
2006/07/16
現況・登城記・感想等
まさにSurprise!
中世の館跡がこれほど土塁・堀・
曲輪の全てが見事に残っているとは本当に驚きである。
本郭、二の郭、三の郭、南郭、西郭が全て見事に配置され、南郭を除く各郭が堀と土塁で防備されている。その土塁も相当な高さを誇っており、
堀もかなり深く掘られている。特に、本郭を囲む土塁と堀は圧巻である。それにしても、
これだけの城館があまり記録に残されていないのは何とも不思議である。
(2006/07/16訪城して)
ギャラリー
菅谷館郭配置図
二の郭から本郭への土橋と虎口
本郭・二の郭間の空堀
結構深くて広いが、それと同時に実にきれいである。
本郭
東西150m、南北60mと結構広く、取り囲む土塁が、
特に北から西部にかけてかなり高いまま残っているのに感動した。
生門跡
本郭の東側の土塁に途切れた部分があり、「生門跡」と伝えられている。
出枡形土塁
本郭は空堀と土塁で守られているが、さらに敵の侵入が効果的に防げるように、土塁に出枡形
(凸状に突き出た箇所)が造られている。
南郭
館内では最も狭い郭で、東西約110m、南北30mの三角形をしている。南側は都幾川の浸食による急な崖となっている。
二の郭
本郭の北側と西側を取り囲むように造られている。
畠山重忠の石像
二の郭の門跡東の土塁上に。
三の郭
東西約260m、南北約130mの長方形をしており、最も広い郭である。
三の郭内の井戸跡と居館跡
蔀土塁
西の郭から三の郭内部の様子が直接見通せないように造られたもの
生拈門(しょうてんもん)跡
三の郭の出入り口で生拈門と呼ばれ、幅が約9mある。発掘調査の結果、
西の郭より約1m高く盛土がされていたことが分かった。この盛土は、西の郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、
敵の侵入が困難になるように工夫したものと思われる。
西の郭・三の郭間の木橋(復元?)
傾斜になっており、三の郭側(奥側)が高くなっている。
西の郭・三の郭間の堀
畝堀のようであった。山中城(静岡県)の畝堀・障子堀を思い起こすほど、きれいであった。
西の郭(左)と大手門跡(右)
周囲は堀によって隔てられ、北側と西側には土塁も築かれている。
西側の土塁には大手門跡と伝わる虎口があるが、夏真っ盛りで草茫々で分かりづらかった。
搦手門跡
北東にあたる虎口(現資料館駐車場入口)は搦手門跡と伝えられ、土塁は二重に築かれ、
前後に数mの食い違いをもたせている。その前を通っている国道254は当時泥田であった。今日は「山ゆりの見ごろ」
との旗がいっぱい掲げられているように、本郭を中心に非常に大柄な「山ゆり」が咲き誇っていた。