武蔵 蕨城(蕨市)

池として残された水堀遺構、江戸初期に御殿が建てられ御殿堀と呼ばれた

足利政知(後の堀越公方)と共に関東下向した渋川氏により築城

所在地

埼玉県蕨市中央4丁目

形状

平城

現状・遺構等

現状:市街地(蕨城址公園、和楽備神社、市民会館等)
遺構等、水堀、土塁(復元)、石碑、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2008/02/18

歴史等

蕨城は、「鎌倉大草紙」等により、貞治年中(1366頃)に将軍足利氏一族の武蔵国司渋川義行が城を構えたとされてきたが、 義行が武蔵下向の事実が確認されないことから、近年「蕨市史」により否定された。
室町時代の末、「永享の乱」「結城合戦」「享徳の乱」 と戦乱が続く関東平定(古河公方足利成氏を征討)のため、長禄元年(1457)、将軍義政は仏門にあった弟・ 足利政知を還俗させ鎌倉公方として下向させ、渋川義鏡を補佐役につけた。しかし、鎌倉は上杉氏に支配されていて、 上杉氏は公方を望んでいないことから鎌倉へ入ることが出来ずに、伊豆韮山の堀越 (伊豆市)に留まることになった。堀越公方の始まりである。
義鏡は、河越・岩付・江戸の軍事防衛線として渋川氏ゆかりの蕨に城を構えて、古河公方に対抗しようとしたと考えられる。 義鏡が蕨に来て築城の指示をしたことは確認出来ないが、関東下向から時を経ない時期に、 有力家臣の板倉氏などに命じて築城したと考えられている。
この後蕨城は、大永4年(1524)4月、北条氏綱に攻略されて、門や橋を焼いて落とされたが、同6年(1526) 6月には上杉朝興が奪還している。
しかし、戦国時代になり、室町幕府の力が翳りをみせるとともに、鎌倉府の支配も弱体化すると、渋川氏も急速に力を失っていき、 後北条氏の勢力下に入り、一部将として永禄10年(1567)8月の後北条氏と里見氏の上総三舟山合戦に参加したが、 義鏡の孫とみられる当主の義基は討死し、残った家臣たちは蕨に帰り帰農したという。それに伴い、城は廃されたという。
江戸時代になると、徳川家康が宿駅制度の拡充と参勤交代制を施行するまで、城跡に御殿を置いた。
尚、蕨城は、戸田市上戸田(元蕨)にあったとの説もあり、どちらが蕨城であったか定かではないが、古絵図や和楽備神社境内周辺の遺構から、 こちら(蕨市)にあった可能性が高い。
『「中世武蔵人物伝・埼玉県立歴史資料館Ⅱ編(さきたま出版会刊)」、「現地説明板」他参照』

【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、 氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、 義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円 (6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、 将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、 翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。
【結城合戦】
永享の乱の翌年、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月、攻防8ヶ月の末、 結城城は陥落した。 春王丸と安王丸は殺されたが、まだ8歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された。
【享徳の乱】
助けられた永寿丸(万寿丸ともいう)は成長して成氏を名乗った。成氏はやがて関東管領上杉憲忠と対立し、憲忠を討ったが、 将軍足利義政の派遣した幕府軍に攻められ、下総古河に逃れた。

現況・登城記・感想等

蕨城は、JR蕨駅から西へ徒歩10分くらいの所にあり、市民会館を目標に行けば、城址公園通りへと出る。ただ、 蕨は真っ直ぐな道はないので、方向を間違え易い(私だけ?)ので地元の方に市民ホールの場所を教えてもらった方がいいかも。
城址公園の和楽備神社側にはL字形の復元土塁と、池として残された水堀が残るだけで、往時の面影はほとんどない。 公園内には3m以上もある立派な石碑が建っている。
(2008/02/18登城して)

ギャラリー

城址公園通り
JR蕨駅から西へ徒歩10分くらいの所にあり、市民会館を目標に行けば、城址公園通りへと出る。 公園隣には和楽備神社がある。

蕨城址公園入口
城址公園入口右横にはL字形の土塁がある。少し残っていた土塁を公園化の時に復元したものであろうか?勿論、 石垣は遺構ではない。

土塁(公園内から撮影)

御殿堀と堀の説明碑
池として残された水堀遺構。城を囲む堀の一部である。徳川初期には度々当地で鷹狩が催され、 ここに御殿が建てられ、堀は御殿堀と呼ぶようになった。

本丸跡(本丸跡は芝生の公園となり、市民の憩いの場となっている)

城址石碑
公園内には3m以上はあるであろう、立派な石碑が建っている。

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