下総 臼井城(佐倉市)

本丸と二の丸間の空堀と土橋

千葉一族・臼井氏、原氏約475年居城後、徳川四天王酒井忠次の嫡男家次が入城

所在地

千葉県佐倉市臼井田

形状

平山城

現状・遺構等

現状:城址公園、宅地他
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、虎口、土橋

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/02/13

歴史等

永久2年(1114)に千葉常兼の3男常康が初めて臼井の地を治めて以来、16代臼井久胤までの約450年間、 臼井氏は長くこの地の領主であった。臼井氏の中興の祖と云われる興胤(14世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。
戦国時代の永禄年間(1558~70)以降は、千葉氏の一族・原氏の居城であったが、天正18年(1590)小田原城落城により千葉氏とともに滅亡した。
徳川家康の関東入部にともない、徳川四天王の一人酒井忠次の嫡男家次が3万石で入封した。
家次は臼井城に15年間在城の後、慶長9年(1604)上野高崎へ転封となり、 臼井城は破却された。
尚、太田道灌や上杉謙信の軍との攻防戦は有名である。
『「現地説明板」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」より』

【余談】
徳川四天王の一人・酒井忠次の嫡男家次が3万石で入封した時、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らが大封を与えられたのに対し、 これらの家より格上の家柄と地位にあった家次の封禄が少なかったので、父忠次は家康に対して、家次の加増を請うたが、家康は忠次に向かって 「汝も我が子が可愛いか?」と云って、これを拒絶したという逸話が伝わっている。
この話の裏には、家康の嫡男・信康が、信長の命によって自害を余儀なくされたのは、 忠次の不行届による結果から起こったとする家康の嘆きが込められていたという。

現況・登城記・感想等

城址公園として残る臼井城跡は本丸と二の丸の2連郭式で、その曲輪はどちらもかなりの広さを誇るが、 元々の城域は太田図書の墓が建つ辺りも含めたさらに広大な城郭であったであろうことは、散策をしていても容易に分かる。
実際には、さらに、臼井城を取囲むように州崎砦・仲台砦・田久里砦・臼井田宿内砦が築かれていたそうだ。
この城跡の魅力は、何と云っても「二の丸の廻りを巡る非常に大規模な空堀」と「本丸と二の丸間の堀切とそこに架かる土橋の姿」であろう。 特に、二の丸の西側の空堀は圧巻である。今でも堀底から二の丸上までは10m近くあるのではないだろうか? 「とにかく深~い!」  「とにかくすご~い!!」 しばらく魅入ってしまった。
二の丸から土橋を渡り、本丸への虎口両側にはかなり高い土塁が残るが、ここには櫓が建っていたのであろうか。かなりの威圧感がある。
本丸は、かなり不整形である。本丸の一番東側からは印旛沼の眺望が美しい。かつては、この城のすぐ下まで迫ってきていたことであろう。
臼井城址は、遺構も素晴らしいが、整備も実によく行き届いていて、散策して非常に楽しい城址だった。ただ、今日はあまりにも寒い上に、 強烈な風で参った!!
(2008/02/13登城して)

ギャラリー

縄張図        ~クリックにて拡大画面に~
城址公園として残る臼井城跡は本丸と二の丸の2連郭式で、その曲輪はどちらもかなりの広さを誇るが、 元々の城域は太田図書の墓が建つ三の丸も含めたさらに広大な城郭であった。

本丸
本丸は、縄張図で見るように、かなり不整形であり、それほど高い山ではないが眺望はよい。

本丸から眺める印旛沼     ~クリックにて拡大画面に~
本丸の一番東側からは印旛沼の眺望が美しい。今では、城のすぐ下まで家が建つが、かつては、 この城のすぐ下まで沼が迫ってきていたことであろう。

本丸北西側の腰曲輪
結構見落としやすい所に、腰曲輪がきれいに残っていた。

㊧本丸北下にある曲輪と、㊨その曲輪へ入る搦手虎口
本丸の北側下には腰曲輪様(腰曲輪というには広過ぎる?)の曲輪があり、ここは搦手口だったようだ。 曲輪内にもいくつか土塁があるが、それが何なのかは分からない。
 

本丸北下の曲輪から本丸への虎口に残る石垣 ~クリックにてズームアップ~
大した石垣ではないが下総の城では珍しい。近世に酒井氏が入城してからのもの?

本丸・二の丸間の空堀と土橋     ~クリックにて拡大画面に~
この構図がすっかり気に入ってしまった。堀はかなり埋められてしまっているようだが、 何とも絵になると思いませんか?

二の丸から本丸への虎口両側の土塁
二の丸から土橋を渡った、本丸への虎口両側(上写真参照)にはかなり高い土塁が残るが、 ここには櫓が建っていたのであろうか。かなりの威圧感がある。
 

二の丸(本丸虎口から撮影)
二の丸はよく整備された広大な芝生の広場になり、市民の憩いの場になっているようだ。

二の丸虎口に建つ城址碑と説明板(土塁上が二の丸)

二の丸の周りを巡る空堀(南西部)
この空堀は実に見応えがあり、これを見るだけでもこの城跡の素晴らしさを実感できる。

二の丸の周りを巡る空堀(北西部)
さらに北西部に廻ってみると、さらに堀は深くなる。 今でも堀底から二の丸上までは10m近くあるのではないだろうか? 「とにかく深~い!」 「とにかくすご~い!!」  しばらく魅入ってしまった。

三の丸から二の丸への土橋
今は生活道路となっているが、この土橋は車一台がやっと通れるだけだ。両側は深~い崖(空堀)になっていて、 ガードレールがなかったら怖いだろうな。

太田図書(資忠)の墓
太田図書(資忠)は、太田道灌の弟で、文明11年(1479)に臼井城を攻めた時に、 この地で53人の部下とともに討死した。この墓のある台地上は、三の丸跡で、今は畑になっているが、その名残りはある。
 

お富士さん
二の丸と道路を隔てて物見台跡のような土塁があったが、そこは「お富士さん」が。
 

「玉家(佐倉市鏑木町148、TEL043-484-0045) の鰻
玉家は古くて立派な店構えの「川魚料理」の店である。ここの鰻もなかなか美味しかった。 山城主体の私にとって、海の魚はなかなかありつけず、ちょっとカロリーオーバーが心配ではあるが、鰻は城めぐりの定番になりつつある。

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コメント

お洒落なオヤジ(2008/02/14)

太田図書のお墓には興味深々です。

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