三河 長沢山城(豊川市、旧音羽町)

本曲輪と本曲輪の南から西にかけてめぐる土塁

東西三河の境界にあり徳川×今川の争点の城、長沢松平氏発祥の城?

別名

岩略寺城(がんりゃくじじょう)

所在地

愛知県豊川市(旧音羽町)長沢町御城山
【アクセス】
東名高速道音羽ICを下りて国道1号線の信号て右折して岡崎方面に向かい(名鉄長沢駅からだと南西方向へ直進)、一つの目の「長沢」の信号で左折し直進し山裾に向かうと、道は左右に分かれるので、左手に向かい山の中へ入って行くと、左手に岩略寺城跡への絵図が載った案内板がある。その少し先の左手に徒歩用の道があり、「近道」と書かれた案内板がある。車は、そこから道なりに約800mほど登って行くと、縄張図の案内板のある駐車場に着く。

形状

山城(標高168m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、虎口、土塁、空堀、堀切、井戸、石碑、遺構案内柱、縄張図板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2011/08/14

歴史等

長沢山城(岩略寺城とも)は文安の頃(1444~1448)に関口満興によって築かれ、弟の長沢直幸が守っていたが、長禄2年(1458)に西三河の松平信光によって攻略され、信光は子の親則にこの城を与え、以後、親則は長沢松平氏の祖となったといわれる。また一説には、「長沢松平家譜」に「長禄二年(1458)戌寅親則築城於同国長沢」とあり、この頃に築城されたともいわれる。しかしながら、その城が、この長沢山城なのか、平地にあった長沢城(長沢古城とも)を指すのかは分かっていない。
長沢の地は、その後も、松平氏と今川氏の争点となっている。
天文4年(1535)、松平清康が守山城での「守山崩れ」で横死すると、三河は次第に今川氏の勢力下に入った。そして、天文15年(1546)には、今川氏の軍師雪斎が田原城攻撃のため長沢に50人配置するように命じ、天文20年(1556)には、今川義元が匂坂長能に長沢城在城を命じている。
しかし、永禄3年(1560)桶狭間合戦で今川義元が討ち死にすると、翌4年には、徳川家康が糟谷善兵衛が守る長沢城を落とした。そして、永禄5年(1562)、長沢松平康忠は家康から宝飯郡内の所領を与えられている。
これらのことから、長沢山城は、長沢松平氏の居城ではなく、今川氏、徳川氏の時代を通して在番制をとるような領国の城として機能していたと考えられる。
天正18年(1590)の小田原の役の際には豊臣秀長の軍500が長沢城に入ったという。そして、同年(1590)の家康の関東移封に伴い廃城となったようである。
長沢山城の各曲輪からは、西方に岡崎、東方に吉田(豊橋)方面が一望でき、東西三河の境界に位置する一大拠点であるが、各曲輪の縄張は吉田方面や城下の谷に向かって構えられており、さらに土塁の形状から考察して、現在みられる遺構は、永禄3年(1560)の桶狭間合戦以降に、松平(徳川)氏の手によって対今川氏の備えとして修築されたものと考えられる。
『「日本城郭大系9」、「愛知の山城・ベスト50を歩く(サンライズ出版刊)」他より』

現況・登城記・感想等

長沢山城は、三河では最大級の山城であると同時に、愛知県に残る数少ない良好に遺構が残る城の一つであり、見どころも多くお薦めの城だ。ただ、今回は夏真っ盛りの中での登城で、やぶ蚊が多い上に、登城道や曲輪は蜘蛛の巣だらけで、顔面をはじめとして体中に蜘蛛の巣が張り付いて参った(;´▽`A``。
長沢山城の縄張は、頂部にある本曲輪の周囲に腰曲輪を設け、東に延びる尾根に塁段状に曲輪を造成している。本曲輪は山上にも関わらず3方に土塁を巡らせている。
本曲輪の北西下には三日月堀があるが、これは「愛知の山城・ベスト50を歩く」の中で中井均氏も述べているが、いわゆる武田式の丸馬出の堀ではなく、切岸を高くするための堀のようだ。
また、当城の特徴の一つに、規模の大きな井戸跡が多く残っているが、いずれも水は認められない。これについても、中井氏は「主郭の櫓台(案内板には井戸曲輪となっている)の中など、井戸を造るには不自然な位置にあり、それらの幾つかはイノシシの落とし穴とする見解もある。」としている。
(2011/08/14登城して)

ギャラリー

長沢山城城(岩略寺城)縄張図 (現地案内板より)
長沢山城の縄張は、頂部にある本曲輪の周囲に腰曲輪を設け、東に延びる尾根に塁段状に曲輪を造成している。
岩略寺城絵図

長沢御殿跡に建つ長沢小学校前から望む長沢山城(岩略寺城)の全景
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城域へ
東名高速道音羽ICを下りて国道1号線の信号て右折して岡崎方面に向かい、一つの目の「長沢」の信号で左折し直進し山裾に向かうと、道は左右に分かれるので、左手に向かい山の中へ入って行くと、左手に岩略寺城跡への絵図が載った案内板がある。その少し先の左手に徒歩用の道があり、「近道」と書かれた案内板がある。私は車で行ったので、そのまま進んだ。
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駐車場
上写真案内板のところを、さらに道なりに約800mほど登って行くと、縄張図の案内板と石碑が立つ駐車場に着くが、ここは元々は南西部を断ち切る堀切跡らしい。小屋の向こう側が登城口である。
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南曲輪への虎口
登城口から少し登ると右手上に南曲輪への虎口が見える。登城口からここへ来るまでに、いきなり蜘蛛の巣が顔面のみならず体中に張り付いて参った(;´▽`A``。
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南曲輪
南曲輪は本曲輪と本曲輪の南西下の腰曲輪の下に設けられている。比較的広く、写真左の坂道から腰曲輪へ登って行けるが、往時は果たしてどうかな・・・?
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虎口
南曲輪から一旦戻り、本曲輪方面へ向かうと、縄張図には載っていないが、虎口のようなのが・・・。縄張図によると、この辺りに堀切があるが、分からなかった。この辺りも蜘蛛の巣だらけで・・・( ̄ー ̄;。
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本曲輪への坂道
上写真の虎口を抜けると、右手に本曲輪への案内板があるが、その道はかなり急な坂道である。
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三日月堀
本曲輪への坂道は後回しにして、直進すると三日月堀が現れる。これは、いわゆる武田式の丸馬出の堀ではなく、切岸(写真右)を高くするための堀のようだ。
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本丸北西部下の井戸跡と腰曲輪
三日月堀を見たあと、本丸への坂道に戻り、登って行くと上の方に本曲輪への虎口が見え、その一段下には腰曲輪が設けられ、左手に井戸跡が見えてくる。
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井戸跡
井戸の規模は直径3m近くある大規模なもので、水は溜まっていない。
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腰曲輪
上写真を右の方へ行くと、腰曲輪へ出る。この腰曲輪には土塁がめぐっていた。土塁がめぐっているのは、この腰曲輪と本曲輪だけのようだった。
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井戸曲輪(櫓台?)
元来た道へ戻り、本曲輪へ登り北西部の虎口を入って行くと、すぐ左側に井戸曲輪(「愛知の山城・ベスト50を歩く」の中で中井均氏を、これを櫓台としている)があり、小さな祠が鎮座している。
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井戸曲輪の井戸跡
こちらの井戸も3m近くある大規模なのもで、やはり水は溜まっていない。
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二の曲輪
本曲輪の北側には二の曲輪が設けられている。二の曲輪は、本曲輪と同じ高さであるが、間が高さ1m半ほどの土塁で区切られている。
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本曲輪
本曲輪は40m四方ほどの広さがあり、東側を除く3方を高さ1m半ほどの土塁がめぐっている。本曲輪跡もあまり整地がされていなくて凸凹だ。ここも蜘蛛の巣だらけで、顔面にまたやられた~(;>_<;)。油断大敵だ!!
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本曲輪の南から西にかけての土塁
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櫓台?
本曲輪の南東隅はやや高くなっており、少し突き出ている。多分、櫓台だろう。
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本曲輪東側の枡形虎口
本曲輪の東側には虎口があり、大手道から来るとこの虎口に辿り着くようだ。あまり明瞭ではないが、枡形虎口になっていたようだ。
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本丸東下の井戸跡
枡形虎口を降りて行くと、大手道の左側にも井戸跡がある。その横は土橋のような細い道になっている。
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東曲輪
さらに降りて行くと、左前方に東曲輪がある。東曲輪は、非常に高く鋭い切岸を持ち、両尾根に睨みを利かせている。
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東曲輪下の井戸跡
東曲輪下を通る大手道の下の急崖にも井戸跡がある。ここも含めて、井戸のある場所が極めて不自然だ。「愛知の山城・ベスト50を歩く」の中で、中井均氏が「主郭の櫓台(案内板には井戸曲輪となっている)の中など、井戸を造るには不自然な位置にあり、それらの幾つかはイノシシの落とし穴とする見解もある。」と述べているが、私も、その可能性は大きいように思うが・・・?
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段曲輪
東曲輪の下にも腰曲輪が塁段状に設けられている。塁段状の腰曲輪は、他の尾根にも多く設けられており、当城がかなりの規模を誇るのが分かる。
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