角牟礼城伝搦手門跡
豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の難攻不落の山城
別名
角埋城
所在地
大分県玖珠郡玖珠町森
形状
山城(標高577m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構:曲輪、石垣、土塁、井戸、竪堀、遺構案内板、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2006/07/27
歴史等
角牟礼(つのむれ)城の名が史料に初めて登場するのは文明7年(1475)の志賀親家文書である、その後は、天文2年(1532)
や翌3年に「角牟礼新堀之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城は古くから豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、
玖珠郡衆により守られていた城である。
天正14年・15年(1585・1586)の島津氏と大友氏の豊薩戦で、島津氏が豊後侵攻した際も唯一落城しなかった。
天然の要害に加えて山頂近くに清水が湧き出ることから「難攻不落の城」として有名でもある。
文禄2年(1593)には、豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、
玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596)からは毛利高政が日田・玖珠2万石を支配した。
発掘された門跡や現存する石垣はこの時期に築かれたものと考えられる。従って、この城は文禄3年(1594)
頃豊後の要の城から領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものであると考えられる。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の後、毛利高政は佐伯城主に転封して、一時、黒田孝高の預り地となったが、慶長6年(1601)
、伊予より来島康親が入部した。しかし、来島は1万4千石の小大名であり、城を持つことを許されず、現在の三島公園に森陣屋を築き、
角牟礼城はそのまま放置され、長い歴史の幕を閉じた。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
角牟礼城は標高577mある。山麓の三島公園(森陣屋跡)の後方にそびえる角牟礼城はまさに難攻不落の要害城である。
地元の人に道を尋ねると、1.5km位しかないから歩いて登っても大丈夫ですよと言われたが、とてもとても・・・。
車で、狭く曲がりくねった、急な坂道を登っていくと8~10分位で三の丸跡に出る。「歩いて来なくて良かった!
36℃にも達する猛暑の中を歩いて来ていたら? 考えただけでもぞっとする。」
三の丸跡には石垣がかなり残っている。三の丸から搦手門へと登って行くと穴太積みの立派な石垣がある。
ここが角牟礼城の一番の見どころであろう。ここには、井戸曲輪もある。そこからさらに二の丸へと登ると二の丸には建物の礎石がある。そして、
そこに大手門の枡形虎口の石垣がよく残っており、ここから眼下に見える眺望が素晴らしい。しかし何故、
こんな場所に大手門があったのだろうと疑問を残しつつ、さらに登っていくと展望所に出る。
左手に見える大岩扇の岩山を筆頭にした山並みと眼下に見える町並みの眺望は素晴らしい。さらに登って行くとすぐに本丸へと到着する。
本丸はかなり広いが、草茫々で入って行けなかった。
角牟礼城は遺構もよく残っており満足満足。であったが、ただ、薮蚊の多いのには参った。やはり山城めぐりは冬に限るなと、今回も反省しきり。
(2006/07/27登城して)
ギャラリー
山麓の森陣屋跡から見る角牟礼城跡
角牟礼城は標高577mある。写真で見るとそれほど急峻には見えないが、
山麓の森陣屋跡から生で見る角牟礼城はまさに難攻不落の要害城である。
三の丸跡へ到着(右写真の後方の岩盤の山は大岩扇山)
山麓の森陣屋跡からここまで車で8~10分くらい。今日はここで4城目の登城である。
地元の人に道を尋ねると、1.5km位しかないから歩いて登っても大丈夫ですよと言われたが、36℃もの猛暑の中を歩いて登ってきていたら、
どうなったかと思うと・・・ゾ~ッ!
三の丸
三の丸跡は、一見、石がゴロゴロ転がって荒れ果てて見えるが、良好に残る石垣も多く嬉しくなってくる。
竪堀跡
他にも多くの竪堀跡が残っている。
搦手門付近の穴太積みの石垣
角は算木積みになっており、かなりしっかりした石垣である。
伝搦手門
南側にある城門で井戸曲輪に入る虎口でもある。
搦手門の櫓台跡
搦手門右奥の井戸曲輪跡
二の丸跡の建物の礎石
二の丸は南北に長い曲輪で標高544mに位置する。
大手門傍の櫓門跡
伝大手門跡
西側にある城門で眼下の眺望が素晴らしい。角牟礼城を代表する外枡形虎口であるが、
城全体の縄張りから大手門とするには疑問があるようだが、私も大手門ではないと思う。
展望所からの眺望 ~両写真共クリックにて拡大画面に~
左に岩盤の大岩扇山、遠くの山並み、眼下の町並み、素晴らしい眺望である。
本丸跡
結構広いが、何せ真夏で草茫々。とても入って行く勇気はない(汗)。