正門とその奥に壮大な高石垣を仰ぎ見る
尚泰久王が護佐丸に命じ築城、ペリー提督がその石造建築に驚嘆・絶賛
所在地
沖縄県中頭郡中城村字泊
形状
平山城(標高:155~165m)
現状・遺構
遺構:郭、石垣、門、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2002/11/25
歴史等
勝連半島に勢力をもった勝連城主・阿麻和利(あまわり)を牽制するために、第一尚氏王統三代尚泰久王が、首里に近い中城の地を護佐丸に与え、
中城按司(あじ)に封じて築城させたものという。護佐丸は、はじめ恩納(おんな)の山田城を本拠としていたが、北山
(ほくざん)滅亡後、読谷(よみたん)の座喜味城を築いて移り、
さらに中城城に移ったわけである。
もともとこの城は、この地域を支配していた按司のもので、護佐丸はその城を改修して居城としたものらしい。
護佐丸の素性はよく分かっていない。第一尚氏王統を樹立した尚巴志(しょうはし)の沖縄本島統一に協力し、以後、
第一尚氏王統の重臣として活躍したという。
ところが、東海岸における交易権をめぐって、護佐丸と対立していた勝連城主の阿麻和利が、
1458年、尚泰久王に護佐丸が反逆を企てていると讒訴し、それを信じた尚泰久王が中城城へ、阿麻和利を大将に任命し討伐軍を派遣した。
忠誠心の厚い護佐丸は謀反など企てていない事を示すため抵抗もせず、妻子もろとも自決したとされる。阿麻和利はこのあと、
さらに首里を攻撃したが、撃退されて彼もまた滅んだ。
ただし、この「忠臣・護佐丸、逆臣・阿麻和利」というイメージは、後世の脚色によるところが大きいとされる。つまり、
護佐丸と阿麻和利の両者の勢力増大は首里の尚氏をも脅かすものになり、尚泰久王が仕組んだという説がある。
中城城は、中城湾を一望のもとにおさめる標高130mの丘陵上にあり、城域の面積は1万3200㎡。
6つの郭かをめぐる石垣の城壁は高い所では12mもある。
『参考:日本の名城・古城ものしり事典(主婦と生活社刊)』
現況・登城記・感想等
建造物が全く残っていない城址だけなのに入城料金をとられたが、それだけの価値は充分ある。1853年にペリー提督が来島し、
その石造建築に驚嘆して、絶賛したそうであるが、それだけのことはある。
沖縄に残る世界遺産の城址はいずれも素晴らしい石垣であるが、その中でも、ここの石垣群は別格である。圧倒されるような高石垣・
布積みを中心とした綺麗な曲線を描く石垣・アーチ式の石門とどれをとっても最高である。特に、正門の外側から見る、
どっしりとした正門と中に見える高石垣群には見とれてしまう。座喜味城もそうであるが、
護佐丸の築城術はすごい!!
また、城から見える南国の海原の眺望も素晴らしい。今回は夕方になってしまったにもかかわらず、結構じっくりと見て回った。遠くて、
そうそう何度も来れないとは思うが、是非、もう一度来城したいものである。とにかく最高!!
(2002/11/25登城して)
ギャラリー
中城城絵図
馬場から三の郭を(さあ登城)
三の郭と裏門
太陽(てだ)が穴(東)に向かって建てられた裏門。ペリーがエジプト式と評した。
三の郭への入口
三の郭
二の郭①
二の郭②
一の郭
正門
どっしりとした正門と中に見える高石垣群は本当に素晴らしい。
西の郭から見上げる一の郭の高石垣(高い所は12mもある)
北の郭から見上げる二の郭の高石垣
ハイビスカスの花が咲いていた