里見水軍の攻撃に備えて築かれた後北条氏の水軍城
所在地
神奈川県横須賀市東浦賀町2丁目
東叶神社(東浦賀町2丁目59-1他)の裏山
形状
山城(水軍城) 標高約50m
現状・遺構
現状:山林(明神山)
遺構等:曲輪、土塁、堀切、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/09/24
2007/09/27
歴史等
後北条氏は早くから三浦半島の三崎城を根拠地とする三浦水軍や、伊豆半島西海岸や先端部の下田などの浦々に城を造って、
敵の来襲に備えていた。水軍城は特に伊豆西海岸に多く、武田氏や今川氏への水軍の押さえであったが、江戸湾に突き出た三浦半島東岸にも多く、
里見水軍への押さえであった。北条水軍は北条氏綱の頃から玉縄城の管下であった。
永正13年(1516)、北条早雲は三浦義同を新井城に滅ぼすと、
三浦氏に従っていた三崎10人衆を水軍として城ヶ島に置き、三浦半島の海岸の防衛を命じた。この時、浦賀城(砦)
も後北条氏に属したと思われる。
しかし氏康の時代になると、江戸湾対岸の房総半島に勢力を張る里見氏の勢力が伸び、
しばしば里見水軍が三浦半島東岸一帯を荒らしまわるようになり、
それを防ぐために三崎城の出城として明神山の浦賀城を強化したものと思われる。
また北条水軍の造船所は、下田城と、
ここ浦賀城にあったとのことである。
『「現地説明板」、「歴史群像シリーズ⑭真説戦国北条五代(学研刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
東叶神社の裏山が浦賀城址である。近くには登城するための駐車を出来る所が全くなく、一度目(09/17)
は神社前から写真を撮るだけで諦めたが、今日は神社前の道路の隅に置いて、駐禁や通行する大型自動車の邪魔にならないか等々を心配して、
ビクビクしながら大急ぎでの登城であった。
東叶神社の横の結構急な階段(256段)を登ると4~5分程で主郭らしき山頂の曲輪跡に出る。周りは木々が密集しているが、海側
(房総半島側)だけ一部眺望が開けている。靄っていたにも関わらず、目の前に房総半島が意外な間近に見え、相模国(三浦半島)
と安房国が随分近いんだということを実感する。
遺構としては、帯曲輪跡や土塁跡、或いは竪堀跡らしきものがあったが、よく分からなかった。何しろ時間(車)
を気にしての登城でさっと見て廻っただけなので・・・(汗)。
浦賀と云えば、まずペリー来航が頭に浮かぶが、もう一つ勝海舟が咸臨丸で太平洋を横断する直前に、
航海の安全を祈念するために断食を行った場所でもあり、海舟関係の碑や井戸も残っていた。
(2007/09/27登城して)
ギャラリー
浦賀城全景
浦賀城麓の東叶神社
養和元年(1181)、
源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まる。
神社横階段から登城
東叶神社の横の結構急な階段(256段)を登ると、
4~5分で主郭らしき曲輪跡に出る。㊧は神社横(上写真左側)の階段。㊨は、さらのその上の産霊坂で、700年以上前に築造されたが、
豪雨で崩壊したため、大正10年に修築されたとのこと。
主郭?(山頂)
この時代の出城としては結構広い曲輪で、一部土塁で囲まれている。周りは木々が密集しているが、海側(房総半島方面・写真奥の塔の後ろ)
だけ一部眺望が開けている。
山頂曲輪からの眺望(房総半島方面)
~クリックにて拡大画面に~
靄っていたにも関わらず、目の前に房総半島が意外な間近に見え、相模国(三浦半島)
と安房国が随分近いんだということを実感する。ただ、あまりにも靄がひどいため写真では分かりづらいかな。
竪堀跡?
遺構としては、帯曲輪跡や土塁跡、
或いは竪堀跡らしきものがあったが、よく分からなかった。
㊧勝海舟断食の場の碑、
㊨勝海舟使用の井戸
東叶神社は、勝海舟が咸臨丸で太平洋を横断する直前に、
航海の安全を祈念するために断食を行った場所でもあり、海舟断食の場の碑が山頂曲輪隅に、海舟使用の井戸が社務所裏に残っている。