渡良瀬川(渡良瀬分水路)越しに城址全景を
足利長尾氏、当初の本拠の城
別名
勧農城、叶城
所在地
栃木県足利市岩井町岩井山
形状
平山城(標高54.5m、比高約20m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、標柱、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/02/28
歴史等
岩井山城は、文正元年(1466)、山内上杉氏の重臣長尾景人が足利荘の代官として勧農の地に入部し、拠点とした。
既に砦のようなものが存在していたのを、入部にあたって堅固な城郭に構築し直したものと思われる。
長尾氏は、坂東八平氏の一つで、相模国鎌倉郡長尾郷(現横浜市)を本拠とする鎌倉権五郎景政の孫景明を祖とする。
南北朝時代、長尾景忠は関東管領上杉憲顕に従い、長尾氏発展の基礎を築いた。そして室町時代には代々山内上杉氏の重臣として勢力を伸ばした。
景忠以後、越後長尾氏(越後春日山城主)
・白井長尾氏(上野白井城主)
に分かれ、そして長尾景人が足利荘に入部して足利長尾氏(岩井山城主、のちに足利城主)が生まれた。
永正年間(1504~21)、足利長尾氏3代目景長は両崖山の足利城を修築して移ったので、、
景人以来の居城であった岩井山城は長尾氏の支城となった。
『とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)より』
現況・登城記・感想等
冬場で下草(雑草)は枯れており、幾重にも重なった落ち葉で滑りながらも、大抵の所へは入って行け、
曲輪跡や土塁跡らしきものはあったが、あまりにも荒れ放題ではっきりと遺構を特定することは出来なかった。
城跡内には、廃屋や朽ちかけたような神社建物があり、全く整備がされていない。市指定史跡というなら、もう少し整備がされないものだろうか?
ただ、渡良瀬川(渡良瀬分水路)の対岸から眺めると、自然の地形河岸段丘をうまく利用した城であることはよくわかる。
(2008/02/28登城して)
ギャラリー
登城口の説明板
城址北側(渡良瀬分水路側:テニスコートのすぐ南側土手上)から登城することができ、
手前に2~3台ほど駐車できる。
赤城神社
山の中腹には、赤城神社がある。神社裏手が山上、主郭となっている。
居館跡と思われる削平地
城址の南東部には居館が建っていたのであろうと思われる結構広い削平地があり梅林になっていたが、
相当荒れている。
㊧土塁?、㊨虎口?
城址の南西部には、渡良瀬川から登って来た所に、あまり高くはない(1mほど)が、土塁跡らしきものがあり、
その横には虎口らしき所もあった。
渡瀬分水路(岩井橋横)の対岸から眺める
渡良瀬分水路の対岸から眺めると、自然の地形河岸段丘をうまく利用した城であることがよく分る。