越後 樺沢城(南魚沼市)

山頂部の本丸跡から上田荘を

謙信の関東征旅の宿城、「御館の乱」上田口攻防の拠点

別名

樺野沢城、樺潟城、鞠子城

所在地

新潟県南魚沼市塩沢樺野沢
【行き方】
国道17号線で砂押信号を六日町方面へ向かい2つ目の信号を左折。この信号のところに樺沢城と龍澤寺の案内板があるので、 ここからは案内板に従って進めば龍沢寺下の登城口に出る。登城口からさらに50mほどに広い駐車場がある。

形状

平山城

現状・遺構等

現状:山林ほか
遺構等:曲輪、土塁、虎口、空堀、堀切、竪堀、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2009/10/04

歴史等

樺沢城は、南北朝時代には新田義貞の家臣田中右衛門尉の居城で鞠子城といわれたという。
戦国時代には、初めは坂戸城の支城で上田長尾氏の家臣栗林氏が城を守っていたが、 長尾景虎(後の上杉謙信)による越後平定以後は春日山城の支城となり、 上杉軍団の関東征旅の宿城となった。
天正6年(1578)上杉謙信が春日山城内で死去し、 後継者をめぐる上田長尾氏出身の上杉景勝と小田原の後北条氏出身の上杉景虎による御館の乱が起こると、小田原城主北条氏政は、 弟景虎の援軍として北条氏照・氏邦を大将とし、厩橋城将北条 (きたじょう)高広、沼田城将河田重親を先鋒として越後へ送った。
9月、三国峠を越えて越後に入り、景勝の拠点坂戸城と目と鼻の先の樺沢城を落とし、 それを前線基地として坂戸城をはじめ板木城、 浦沢城を攻めたが、陥落させるまでには至らず、御館の乱は長期戦の様相を呈し始めた。
越後の冬は早く、しかも厳しい。後北条軍は、北条高広・河田重親等を残し、来春の来越を約束して関東へ引き揚げた。
そして、景勝派優勢のうちに年は変わり天正7年(1579)2月3日、景勝勢は後北条勢の来援のない樺沢城を奪還した。
乱後、上田長尾氏の有力家臣が城を守っていたが、慶長3年(1598)景勝の会津移封で廃城となった。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「歴史群像スペシャルNo1(学習研究社刊)」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

樺沢城は決してメジャーな城ではないし、それほど期待しての登城ではなかった。しかし、それは大きく外れた。
規模も結構大きく、土塁や空堀等の遺構が実に良好に残っている素晴らしい城址である。
中でも城跡の中腹から下方にかけて鉢巻状に構築された土塁と空堀は見事である。
とりわけ空堀は、横堀・竪堀・堀切、そして大空堀あり、9条の畝状竪堀群ありと見応え満点である。 空堀のあまりの多さとそのいずれもが見事なのが嬉しくて、前日の雨で滑りやすいことも忘れてはしゃいで廻り、 畝状竪堀群で滑り落ちてしまった(汗)。
また、山頂部にある本丸跡からの眺望も素晴らしく、眼下に魚野川、三国街道、上田荘が見え、 その向こうには八海山をはじめとする山並みが見渡せる。そして北東方面には坂田城の偉容も見える。
兎に角、大満足の登城であった。
(2009/10/04登城して)

ギャラリー

樺沢城の図(登城口のパンフより作成)  ~クリックにて拡大画面に~

登城口
龍澤寺の山門の前に登城口がある。本来の大手登城口は写真左側にある線路500m先にあるが、 上越線敷設に伴い、便宜上ここに登城口を造ったとのことだ。樺沢城跡は、今年(2009年)のNHK大河ドラマ「天地人」に合わせて、 かなり整備されたのであろう。至る所に石碑や幟が設置されている。この登城口にも、写真の左側には「御館の乱追悼碑」、中央奥の塁段下には 「元屋敷跡」、右の「上杉景勝公生誕の地」の看板の横には「樺沢城跡東登口」と3つの石碑が設置され、 幟や旗も3旗がたてられ賑やかなことだ。

仙桃院のお花畑跡
㊧登城口から少し進むと「仙桃院のお花畑跡」の看板があり、「左手下一帯が仙桃院のお花畑です。一部、 電車線路敷になっています。」とある。また、この先には「御館跡」があり、やはり線路敷になっているとのことだ。
㊨また、龍澤寺の山門下にも「仙桃院のお花畑跡」の碑が設置されいるが、実際の場所は左写真の左側の線路一帯であったとのことだ。

 

土塁と空堀、 そして梟の彫刻
㊧さらに登って行くと、左手に木の幹に直接彫られた可愛らしい梟の彫刻が・・・。
㊨振り返って見ると、空堀と土塁が良好に残っている。梟の彫刻は右側に。

 

堀底道と土塁、 そして望楼跡
㊧上写真の所からは土塁と空堀がよく残り、空堀は堀底道になっている。
㊨しばらく行くと、左手に望楼跡が見えてくる。

 

三の丸
大手道から虎口を入ると三の丸へと出る。三の丸は樺沢城最大の曲輪で5段になっている。 この写真は一番下の曲輪である。

三の丸(最上段)
三の丸最上段からは、空堀を通して二の丸が見える。

三の丸と二の丸間の空堀
この三の丸と二の丸を断ち切る空堀は、かなり大きな規模で深さ3~4m、上部幅6~7mあるだろう。 長さは50mあるそうだ。

㊧三の丸と二の丸間の空堀(南側) 、㊨北側
 

二の丸
二の丸は3段になっており、東西両側を深い空堀で断ち切られている。上写真が、東側の空堀。

二の丸と大空堀
二の丸西側の空堀は「大空堀」となっており、最深部で20mもあり、長さも70mあるそうだ。尚、 上部幅は6~7mほどであろうか。

二の丸西側の大空堀
二の丸側から撮ったものであるが、その規模が分かるだろうか?今は、 階段が付けられ下りて行くことも出来るが・・・。

胞衣塚(えなづか)
上杉景勝の胞衣を納めたと伝えられており、「安産の宮」として信仰を集めているそうだ。

下の帯曲輪
本丸周囲を囲む帯曲輪は2段になっており、どちらの帯曲輪にも樹齢80余年の桜・染井吉野が生えている。

上の帯曲輪

本丸
本丸は幅11m、長さ30mほどである。尚、龍澤寺で貰ったパンフによると、本丸は標高304mとあり、 登城口の説明板には高さ330mとあったが、どちらが本当なんだ??

本丸からの眺望
本丸跡からの眺望は素晴らしく、眼下に魚野川、三国街道、上田荘が見え、 その向こうには八海山をはじめとする山並みが見渡せる。そして北東(写真左端)方面には坂田城の偉容も見える。

本丸からの眺望案内(本丸跡看板より)

本丸南西部の堀切
この堀切は非常に急傾斜になっており、有難いことに虎ロープが用意されている。 ここからは急傾斜の堀切や竪堀の連続でそれぞれに虎ロープが備え付けられている。
㊧は本丸側から堀切の下を覗いたもので、㊨は下から本丸側を見上げたものだで、この写真からでも結構その傾斜が分かるのでは?

 

本丸南西部の堀切の底
上写真の堀切を堀底で撮ったもので、勿論、前後は竪堀となって山裾へ落ちていっている。

さらに堀切
上写真の堀切を渡り、さらに南西へと進むと、最先端部にも堀切が現れる。 この堀切の先も狭い曲輪跡のようになっているが、その曲輪の周りは急崖となっており、物見台かなんかになっていたのではと思われるが・・・?
㊧は、本丸側から堀底を覗いたもので、勿論、虎ロープが備え付けられている。
㊨は、先端部の曲輪(物見台?)から本丸方面を撮ったものである。

 

裏帯曲輪と本丸を
先端部の曲輪(物見台?)から撮ったもので、本丸の北部分と、その下には長~い帯曲輪が・・・。 帯曲輪の下は、急崖になっている。

本丸先端部の曲輪跡(物見台?)
上写真の裏帯曲輪の方から撮ったものであるが、この曲輪(物見台?) 周囲が急崖になっているのがお分かり戴けるだろう。私は、こういう光景って何となく好きだ!

21さらに堀切が、そして、 いざ畝状竪堀群へ
上写真の所から、南へ進むと、またまた強烈な堀切が現れる。この堀切の南側に畝状竪堀群があるのだ。まずは、 左写真を下りて、さらに左写真の向こうに見える急斜面を登る。畝状竪堀群を見て、戻ってきた時にスッテンコロリン!!
 

22畝状竪堀群の最初の堀
畝状竪堀は9条あるそうだ。勿論、堀切にもなっていて、それが山裾まで続いているのである。 最初の堀は上写真と同じくらいの規模で見応え充分だ。㊧は、上から覗いたもので、㊨は堀底で撮ったsもの。
 

23畝状竪堀群 ㊧2番目の堀、 ㊨3番目の堀
さらに南へと進み2番目の堀、3番目の堀へと進む。これらの堀は、かなり埋まってしまっているのか、 かなり浅く、しかも土橋が架かっている。
 

24畝状竪堀群、4番目の堀
4番目の堀は、また最初の堀と同じくらいの規模があり見応えがある。時間の関係もあり、ここで引き返した。

25土塁
畝状竪堀のところから、西の丸へと進むと、途中に曲輪跡があった。ここの土塁(往時は写真右にあった)は、 昭和の食糧難時代に取り壊されて畑にされてしまったそうだ。

26西の丸へ
西の丸周囲も、規模は小さいが土塁と空堀で囲まれている。

27西の丸
西の丸は、それほど高い所にあるわけではないが、眺望は良い。虎口跡も残っているが、 あまり複雑なものではなかったようだ。

28龍澤寺
樺沢城の山麓にある龍澤寺境内には「上杉景勝公生誕の地」と彫られた石碑があり、弘治元年(1555) 11月27日にこの地(上田庄樺野澤)で生まれたことになっているようだ。しかし、坂戸城にも生誕の地の碑があり、 正確なところは分からないといったところだろう。尤も、龍澤寺の人の話によると、上杉17代当主夫妻がこの寺に参詣し、 その時に下写真にある景勝の奥方(菊姫)護身用の薙刀を手に取り写真に撮ったことから、現当主自ら認めたと勝手に思い込んでいるようだが・・ ・?
 

28㊧景勝の奥方護身用の薙刀、 ㊨仙桃院奉納の文殊菩薩
龍澤寺には景勝の奥方(菊姫)護身用の薙刀や、 仙桃院が景勝元服の折に武運長久と開運祈願のために奉納したという文殊菩薩が。また、上杉謙信の朱印状も残っている。
 

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