越中 魚津城(魚津市)

大町小学校校内に建てられている城址碑

松倉城の支城、後に上杉氏に属し、本能寺の変の翌日に織田軍により落城

所在地

富山県魚津市本町(大町小学校)

形状

平城

現状・遺構等

現状:市街地、大町小学校
遺構:土塁?、石碑

満足度

★☆☆☆☆

歴史等

魚津城の築城年代は明らかではないが、角川の河口近くに築かれており、室町時代に新川地方の政治的・ 軍事的中心であった松倉城への重要な交通ルートの押さえとして築かれた支城であったと考えられる。
魚津城と松倉城は2城で一対をなす城で、 魚津城は松倉城の支城的立場にあった。 戦国時代の永禄年間(1558-70)以降、2城とも上杉氏に属しており、天正9年(1581)松倉城主・ 河田長親が没してのち、上杉景勝は、須田満親を松倉城の城将とし、 魚津城は中条景泰に守らせた。
天正10年(1582)3月、魚津城は織田方の柴田勝家、佐々成政、前田利家ら4万の織田軍に攻められ、 本能寺の変の翌日の6月3日に落城している。
魚津城はその後、佐々成政、次いで前田利家の持ち城となり加賀藩の支配下となって、江戸初期には廃城となったが、 武器庫や米蔵が置かれ万一に備える一方、城外に奉行所や郡代が置かれ、新川郡の政治的・軍事的中心として栄えた。
加賀藩第2代前田利長が隠居して富山城に入った際、 大火で焼け、一時、魚津城に入ってのち高岡城に移った。
天明5年(1785)の魚津町惣絵図には本丸とそれを囲む二の丸が描かれており、明治頃までは堀や石垣が残されていた。
『現地説明板、日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)参照』

訪城日

2006/05/01

現況・登城記・感想等

魚津の市街地のど真ん中にある大町小学校の敷地内に石碑だけがある。
また、運動場の隅に土塁跡らしきものがあったが、説明板もなく、それが何かは分からなかった。しかし、地元の方 (年齢60代後半から70代くらい?)によると、昔は運動場の向こうに堀があったとのことであるから、 多分土塁跡なのだろうと自分を納得させた。
また、校庭の片隅に立派な松があり、上杉謙信の歌碑があった。謙信が魚津城外にたむろしたときにうたったものとのことである。
(2006/05/01)

ギャラリー

土塁跡?
小学校の運動場の隅に土塁跡らしきものがあった。以前はその向こうに堀が残っていたとのことである。 多分土塁跡であろうと自分で納得?

上杉謙信の歌碑
 

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント