館を取り囲む土塁
東駿河葛山氏の葛山城の平時の居館
所在地
静岡県裾野市葛山
形状
館
現状・遺構等
現状:畑 【市指定史跡】
遺構等:土塁、曲輪跡
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/05/28
歴史等
葛山館は鎌倉・室町・戦国期を通じて東駿一帯に勢威を振った葛山氏の平時の居館である。城主・葛山氏は駿東郡から小田原方面にかけての豪族・
大森氏の一族で、藤原惟兼(これかね)というのが葛山に住んで、はじめて葛山氏を名乗ったという。鎌倉幕府の御家人であった。
平時居住した館と戦時の詰の城があるが、平時の居館・葛山館ができたのは、鎌倉時代のころのようである。戦時の詰の城・葛山城は室町時代中期ごろに築城されたようである。
室町期の葛山氏は国人領主として位置づけられる。次第に守護大名今川氏の被官になっていったが、独立的地位は戦国期に至るまで保たれた。
例えば、伊勢新九郎(後の北条早雲)が堀越御所を急襲して足利茶々丸を討った時、
葛山から早雲に援軍を送ったこと、早雲の二男・氏時を葛山氏が養子に迎えているなどによって、葛山氏の独立的位置が証明される。
今川氏と北条氏が甲斐の武田信虎と対抗していた時代には、この両者に挟まれてそれなりに安泰だったが今川義元と武田信虎が和睦し、
これに怒った北条氏綱が駿東に侵出しはじめると、葛山氏も苦しい立場に追い込まれる。
やがて今川氏が衰退すると葛山氏は武田信玄と北条氏康の間で二股を掛けるが、やがて信玄により誅殺され、信玄の六男・信貞が葛山氏を嗣ぐが、
天正10年(1582)武田氏は滅び、信貞も甲斐善光寺で自刃、葛山氏は断絶し葛山城も廃城となった。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)参照』
現況・登城記・感想等
戦時の詰の城・葛山城とワンセットになって、両方ともよく遺構が残っている珍しい例である。
土塁がよく残っており、土塁の中は、今では畑と芝生になってはいるが、往時の感じがよく窺がえる。
土塁は、基底幅は7mで、上部の幅は約2mである。高さは高いところで3.2m、低いところで1mほどである
(もともとは4mだったようである)。往時は四方を囲んでいたのであろうが、今では南側が欠けているがなかなか見事である。内部の広さは、
東西100m、南北100mほどのほぼ正方形になっている。
(2006/05/28訪れて)
ギャラリー
葛山城と葛山氏館の絵図(位置関係)
土塁外側から
基底幅は7mで、上部の幅は約2mである。高さは高いところで3.2m、低いところで1m。
土塁内側と曲輪跡
内部の広さは、東西100m×南北100mほどのほぼ正方形