伊勢 浜田城(四日市市)

鵜森公園内に建つ城址碑

藤原秀郷(俵藤太)の末裔、四日市赤堀三家のひとつ

所在地

三重県四日市市浜田町堀ノ内、鵜森公園
近鉄四日市駅の南西約200m

形状

平城

現状・遺構等

現状:鵜森公園
遺構等:土塁、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2006/08/27

歴史等

文明2年(1470)に田原美作守忠秀がこの地に城を築き浜田家と称した。忠秀は当時の赤堀城主・田原肥前守景信の次男である。
その祖先は藤原鎌足であり、9代の裔俵藤太秀郷の11世の孫に豊前守景綱があり信濃に移り佐野小次郎と称した。景綱より8世の孫・ 肥前守田原孫太郎景信は応永年代(1394~1427)に上野国赤堀より伊勢の栗原に移り、 地名を赤堀と改め城を築いた。景信は、その長子・景宗を羽津城に、 次男・忠秀を浜田に三男を赤堀城に置いた。
忠秀は東海道を城東に移し、東西に大道を通して市街を構成し、市場をひらいて今日の四日市の発展の基礎をつくった。
浜田家は忠秀から紀伊守藤綱、遠江守元綱と3代106年間続いたが、天正3年(1575)織田信長の伊勢侵攻により、滝川一益の大軍に対し、 百余騎にて大手門を開いて押し出し必死の戦いを挑んだが、元綱は負傷し、城兵討たれる者多く、元綱は子息・重綱を脱出させた後、 城に火をかけて切腹して果てた。天正3年(1575)6月6日のことで、ここに浜田城の歴史を閉じた。
昭和51年2月16日  四日市市教育委員会撰   『現地石碑より』

現況・登城記・感想等

近鉄四日市駅のすぐ傍でもあり、石碑以外に何もないのではと思っていたが、土塁跡がはっきり残っていたのは、 期待していなかっただけに嬉しかった。(2006/08/27訪城して)

ギャラリー

土塁跡
結構、良好な形で残っていたのには驚いた。
浜田城 土塁跡

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コメント

oyayan(2008/08/19)

浜田城について自由研究をしたいのですが、何を重点的に記事にすれば良いでしょう?

タクジロー(2008/08/19)

私も、大して詳しくないので偉そうなことは言えませんが、浜田城と言えば、上野国赤堀から移ってきた赤堀三家(羽津城主・浜田城主・赤堀城主)の一つなので、この辺から入っていくことになると思います。
尚、羽津城址は近鉄阿倉川駅の北300mほどの所にあります。
赤堀城址は完全に市街地に飲み込まれており、城東町・城西町辺りの道路端に説明付きの石碑があるようですが、私も車に乗ったまま捜したのですが、見付かりませんでした。
9月頃に帰省したときにでも、また捜そうと思っています。
また、いずれも、織田信長の伊勢征伐(全て滝川一益が陣頭指揮を執ってると思います)のときに落城しているので、これらも研究したら如何でしょうか。

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