本丸虎口とその向こうに本丸、そして周囲をめぐる土塁
佐多氏によって築かれたシラス台地の浸食谷を利用した壮大な城
別名
上木場城(かみこばじょう)
所在地
鹿児島県南九州市知覧町永里
【アクセス】
県道23号線と県道232号線が交わる「知覧役場前」信号(南九州市役所の角)から県道232号線で1.5kmほど南下すると、右手に大きな「史跡・知覧城」の看板(下写真)が立っているので、そこを西へ右折し、500mほど進むと左側に広~い駐車場がある。登城口は、その東端(駐車場東端から更に東へ入って行く)にある。
所要時間
駐車場から本丸まで10分強
形状
山城(標高約170m)
現状・遺構等
【現状】 山林(国指定史跡)
【遺構等】 曲輪、土塁、虎口、空堀、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2012/11/16
歴史等
鎌倉時代初め、当地は知覧院と呼ばれ、薩摩平氏の一族である平忠益が郡司として治め、地頭には島津氏初代忠久が臨んでいた。
その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して各地域を転戦したが、ともに没落してしまい、文和2年(1353)に、足利尊氏が島津氏5代島津貞久の弟、佐多氏の初代忠光の軍功を賞して、郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以後、知覧は佐多氏の領地となった。
室町時代初め、知覧はそのころ南薩に勢力を張っていた伊集院氏の一族今給黎久俊(いまきいれひさとし)が押領して、島津氏8代目久豊に反抗していたが、応永27年(1420)、ついに降伏した。島津久豊は知覧城(当時は上木場城と呼ばれていた)に入ると、あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるとして、佐多氏4代佐多親久に与えた。
その後、天正19年(1591)、佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村川辺宮村に領地を移された。10年後にはまた知覧に復帰したが、その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまった。
復帰した佐多氏12代忠充は、本拠(御仮屋)を中郡地区に移し、さらに江戸中期になって18代久峰が現在の上郡地区に御仮屋を移した。
『「現地説明板」、「知覧麓説明板」他より』
現況・登城記・感想等
知覧城跡は、まさに深山幽谷の巨大な山塊の中に埋もれているが、巨大な空堀や曲輪、土塁、虎口などの遺構が、実に良好に残っている。
城は、標高約170mのシラス台地を刻む浸食谷を利用して空堀として、10余りの並立する曲輪(城と呼ぶ)と屋敷群からなり、41万㎡もの広い城域を有する。
城の縄張りは、南九州特有の群郭式城郭で、本丸・蔵之城・今城・弓場城などを中心とし、その周囲を西ノ栫・東ノ栫・式部殿城など多数の曲輪が取り巻いている。
曲輪間には、浸食谷を利用した大規模な空堀が縦横無尽にめぐり、各曲輪がそれぞれが独立しているのが特徴である。
登城前にも期待してはいたものの、その期待を遥かに超える、大規模で、見応え満点の城でした。勿論、満足度★★★★★です。
尚、現在整備されているのは、中心部の4城だけですが、全て整備されたら、一体、どれほど凄い城跡になるんでしょうねえ(*^_^*)。
(2012/11/16登城して)
今日は長崎在住時代の仲間T橋氏の車に乗せてもらっての登城です。
というのは、折角鹿児島までやって来たのだから、当城跡の縦横無尽にめぐる巨大空堀をT橋氏にも見せたかったのと、前回は独りでの登城でしたが、今日はT橋氏との登城だったので、T橋氏に空堀の中央に立ってもらって写真を撮り、その空堀が如何に巨大なものであるかが分かってもらいたかったからです。
T橋さん、巨大空堀の写真の小道具に使ってスミマセンネエ。
(2024/10/09登城して)
【もう一つの感想?】
これほど素晴らしい城跡で、観光バスが10台近く、さらに乗用車が50~60台はゆうに停めることができるような駐車場も完備されているのに、当日の登城者は私一人だけで、本当に勿体ないと思ったが・・・(苦笑)。「特攻平和会館」や「知覧麓」とのセットでの観光地にならないんですかねえ?やはり、都会から遠すぎますかねえ?
ギャラリー
知覧城航空写真(パンフレットより)
知覧城縄張図(パンフレットより)
登城口に建つ説明板(縄張図と航空写真付き)と標柱
やたらと広い駐車場には私の車が1台のみ(苦笑)。一体、どこが登城口か分からなかったが、駐車場の東端に縄張図付きの立派な説明板が立ち、その右奥に知覧城への案内板が立っていたので、それに従って、さらに東の方へ歩いて行く。
知覧城跡への案内板
説明板のところから、東へ歩いて行くと、知覧城の主体部「本丸・蔵之城・今城・弓場城」への案内板を見付けた。それに従って、南の方へ、即ち、輪間の中へ入って行く。
本丸と東ノ栫の間の空堀(堀底道) ①
山の中へ入って行くと、随分深い山のようで、あまりにも静かで少し気味が悪いほどです。両側は高さ20~30mあると思われる切り立った崖ですが、右側が本丸で、左側が東ノ栫です。即ち、ここはシラス台地の浸食谷を利用した大空堀で、堀底道を歩いて行くのです。
本丸と東ノ栫の間の空堀(堀底道)② ~2024/10/09~
前回は独りでの登城でしたが、今日はT橋氏との登城だったので、T橋氏に空堀の中央に立ってもらって写真を撮り、その空堀が如何に巨大なものであるかが分かってもらいたかったからです。T橋さん、巨大空堀の写真の小道具に使ってスミマセンネエ。
東ノ栫と今城間の大空堀
気味悪いのを我慢して、山の中へ入って行くと、左手に、さらに凄い空堀が現れます。高さ30mほどありそうな急崖で、迫力満点ですw(*゚o゚*)w。
東ノ栫を見上げる
城めぐりをの際に空堀を見たら、大抵の場合、下りて行ったり、登って行ったりするのですが、とてもとても( ̄ー ̄;。はなっから諦めです(笑)。
本丸と今城間の堀切(堀底道)
さらに堀底道を歩いて行くと、今度は、本丸(右)と今城(左)との間の堀底道となります。
本丸と蔵之城下の広場
さらに堀底道を進んで行くと、本丸下の広場へ出ます。写真奥が蔵之城への階段で、右側が本丸です。縄張図で見ると、ここは周囲を、主体部4城(本丸・蔵之城・今城・弓場城)で囲まれています。武者溜りだったのでしょうかねえ。
本丸虎口
本丸への階段を登って行くと、両側を土塁で囲まれた虎口が現れる。
本丸枡形虎口
本丸内から虎口を見下ろしたものです。規模は小さいものの、ちょっとした枡形虎口になっています。登り道が急勾配になっていることを考えたら、かなり堅固な虎口といえるのかもしれないですね。
本丸に立つ城址碑
本丸跡は、一部を除いて、木々が取り払われて明るいです。ここに至って、気味悪さはすっかり消えてしまいました(笑)。
本丸周囲をめぐる土塁①(南東部)
本丸周囲をめぐる土塁が良好に残っています。高さは、2m弱といったところでしょうか。
本丸周囲をめぐる土塁②(北側)
本丸周囲の土塁は、ほぼ完存です。この北側周辺が他よりも高く2m近くありそうです。
建物跡?
本丸南の方に、長方形の窪みがあったが、建物跡だろうか?
蔵之城へ・・・
一旦、本丸下の広場に戻り、蔵之城へ向かう。階段下のポストの中に縄張り付きのパンフが入っていてありがたかった。
蔵之城虎口
蔵之城への虎口は、かなり埋まってしまってはいるが、ここも小さな枡形になっている。
蔵之城周囲をめぐる土塁
蔵之城周囲も土塁がめぐっている。こちらは、高さ1m弱と、低目です。
掘立柱建物跡復元表示
蔵之城跡では、梁行約8m、桁行約8mで、東・南・西側にひさしのつく建物跡と考えられる柱穴が出土している。柱の太さは15cm~20cmほどで、室町時代の建物跡と思われる。
本丸下広場南側の枡形虎口
本丸下の広場南側に、枡形虎口がある。弓場城や今城から本丸方面へ入る虎口である。
弓場城と蔵之城間の空堀(堀底道)
枡形を下りて行くと、弓場城と蔵之城間の空堀(堀底道)へ出る。この空堀の規模も高さ15m以上はゆうにある。
弓場城と今城への分岐点
弓場城と今城へは、両城の間の道を登って行き、途中で分かれる。まずは、弓場城(右)へ向かう。
弓場城虎口
弓場城の土塁
弓場城周囲も土塁がめぐっていたようだが、こちらはかなり低く、一部は欠損しているようでした。
今城の虎口
当写真は、城の上から撮ったものである。今城の虎口も小さいながら枡形虎口になっている。
今城周囲をめぐる土塁
今城周囲も土塁がめぐっている。こちらは高さ2m近くある。
今城と本丸間の空堀(堀底道)
この空堀も、高さ15mはある大規模なものです。
小谷大手口から見る蔵之城と周辺曲輪(式部殿城)間の大空堀
この空堀は、航空写真で見ると、巨大な空堀のようだが、強烈な藪で、とても入って行けるような状態ではない。
西ノ栫
西ノ栫は、道路を挟んで駐車場の反対側ですが、こちらも全く未整備で強烈な藪です。勿論、突入断念です(苦笑)。