伊勢 三宅西条城(鈴鹿市)

主郭西側の堀切

肥後から移り住んだ槇野氏が三宅氏を称し築いた城、信長軍の北伊勢征伐で落城

読み方

みやけにしじょうじょう

所在地

三重県鈴鹿市三宅町
【アクセス】
弘法寺の裏山(南側)であり、福寿寺と国道306号線を挟んで西の山が城跡。亀山市街方面から国道306号線を南進し「三宅新橋北詰」信号から中ノ川を渡り、右奥(弘法寺の裏)に見える山が城跡。
山の周囲は急崖ですが、山の西側に廻ると登城口があります。「三宅新橋北詰」信号から国道306号線を南進して山の南側の農道を右へ曲がり道なりに西進すると、ちょっとした空地があるので、そこに駐車した。そこから、さらに西へ歩いて行くと舗装された道へ出るので、そこを北へ100m弱ほど歩いて行くと右手に登城口があります。

所要時間

駐車場所から主郭まで15分ほど。今回の見学時間は45分ほどでした。

現状

山城

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、物見台?、井戸(池)跡?

満足度

★★★☆☆

訪城日

2014/03/28

歴史等

『伊勢名勝志』では、三宅西条城は、室町時代に槇野秀盛が肥後山鹿庄から来て当地に築城し、三宅駿河守を称したとされる。
永禄12年(1569)、4代藤重ときに織田氏によって攻め滅ぼされた。
また、『三国地誌』では三宅駿河守、その子 権左衛門継ぐ、」とあるが、いずれにしろ、永禄12年の織田氏侵攻で、北勢地方の諸豪族はほとんどが織田氏の軍門に降った。
『日本城郭大系10参照』

現況・登城記・感想等

三宅西条城は中ノ川の南側にある河岸段丘に築かれている。段丘上は、全体がほぼ平坦であり、西側のかなり広い台地を底辺として、U字型に南北それぞれから尾根が東へ延びている。
そして、北側の尾根の東端に主郭(約15m×25m)を設け、南北に低い土塁、西には高さ2mほどの土塁を築き、その西側を堀切で断ち切っている。堀切は、かなり規模が大きく、堀底から主郭土塁上まで約5~6mほどあり、反対(二郭)側でも3~4mほどある。
堀切を挟んで二郭(約15m×15m)、更に堀切を介して三郭(約15m×20m)と東西に延びる尾根上に連郭式に曲輪を配置し、城域の西端を堀切で処理している。
連郭式に配した郭の南北には帯郭が設けられているが、現在、尾根の東端部分(主郭東側)を国道306号線が通っており、道路造成の際に主郭東側部分の帯曲輪は削られたものと思われる。
日本城郭大系等では、以上紹介した北側の尾根を城跡としている。
確かに、明確な遺構はこの尾根にしか確認できないが、これだけではあまりにも規模が小さすぎるのではないでしょうか。
私は、南側の尾根部分や、U字型の底辺部分の広い台地上も城域であったのではないかと思います。それでなくては、西側の一部を除いて、全てが急崖になっていながら、段丘上の広い平坦地の意味がないように思われます。さらには、U字型で囲まれた麓部分には、南北の尾根を繋ぐ畝があり、池になっていることから想像しても、麓には平時の城館が建てられていたのではないでしょうか。
尤も、これらは後年になって改変されたものかもしれず、発掘調査でもされれば別ですが、今となっては知る由もありません。
(2014/03/28登城して)

ギャラリー

三宅西条城跡遠景
亀山市街方面から津方面へと国道306号線を南進し、「三宅新橋北」信号を通り過ぎ、「三宅新橋北詰」信号が近づいてくると、右前方に小高い丘が見えて来ます。見るからに周囲は急崖です。三宅西条城の遺構は、写真左端(東端)上に残っています。
01三宅西条城遠景

南側
「三宅新橋北詰」信号を通り過ぎて中ノ川を渡り100mほど南進すると、右(西)へ入る農道があるので、そこを入って行き、道なりに進んで行くとちょっとした空地があったので、そこに車を停めました。写真は、駐車場所から城跡のある山の南側の尾根を望んだもので、急崖になっており何処からも登って行けそうにありません。
03三宅西条城南面

城跡西側
車を停め、さらに西へ向かって行くと舗装された道へ出ます。その道を北へ進んで行きます。この辺りも往時の状態かどうかは分かりませんが、切岸のようになっており、とても山の上へは登れそうにありません。この切岸のような脇の道を北進します。
05三宅西条城西側

登城道
上写真の道を北進すると右手に山へ登る道があります。その道は比較的よく整備されています。
07登城道

桃林と畑
登城道を登って行くと、ちょっとした空地があり、桃林(多分?)と畑へ出ます。この奥は雑木林になっておりますが、藪の中を強引に通り抜けます。
09三宅西条城台地上

城域へ?
薮を通り抜けると、U字型に南側(写真右)と北側に、東の方へ延びる尾根があり、その間は低くなっています。
11三宅西条城U字

北側の尾根
左(北)へ向かい、ぐるっと廻るように、北側の尾根の上を東へ向かって行きます。
21北側尾根

堀切
北側の尾根を東の方へ進んで行くと、堀切が現れます。かなり埋まってしまい深さは1mほどしかありませんが明確に確認できます。ここから先が、日本城郭大系でいうところの城域になります。
23堀切

三郭と堀切
最初の堀切を渡ったところが三郭でしょうか。三郭は幅15m、長さ20mほどの狭い郭です。そこをさらに東へ向かって行くと、2本目の堀切が見えて来ます。堀切の向こう側が二郭でしょうか。
25郭と堀切

三郭と二郭間の堀切
この堀切も、かなり埋まってしまい深さ1mほどですが、明確に確認できます。
26堀切

二郭
2本目の堀切を渡ったところが二郭でしょう。二郭は15m×15mほどの狭い郭です。二郭には石碑が立っていますが、例によってほとんど読めませんが、寺関係の石碑のようでした。
28二郭

主郭と二郭間の堀切①
二郭をさらに東へ向かうと、正面に土塁が見え、その手前にかなり大規模な堀切が現れます。
30大堀切

主郭と二郭間の堀切②
この堀切は、堀底から主郭(右)側上までは5m~6m、二郭側でも3~4mほどあり、上部幅は7~8mほどある大規模なもので見応え充分です。また、堀切の中央部は、やや高くなっており、明らかに主郭と二郭をつなぐ橋の桁があったのではと思われます。
IMG_8262

主郭北側の帯曲輪
堀切は、堀底道になって、この主郭北側の帯曲輪へと通じていたと思われます。この写真の先は、国道306号線が造成された際に削られてしまったようですが、写真右奥に急坂ですが、主郭へ登ることができます。
35帯曲輪

主郭
主郭上は、全く整備されておらず入って行くのも一瞬躊躇するほどでした。
37主郭

主郭北側の低土塁
主郭の北側と南側には低土塁が設けられています。東側にも設けられていたのでしょうが、国道306号線造成の際に削られたものと思われます。
39主郭土塁

主郭西側の土塁
主郭の西側には高さ2mほどの土塁が設けられています。
41主郭大土塁

主郭西側の土塁上から主郭西(主郭と二郭間)の堀切を見下ろす
主郭西側の土塁から見下ろす、この堀切の光景はなかなかのものです。
43大堀切

【南側尾根へ】
日本城郭大系等が三宅西条城址とする北側尾根を見終えて、次は南側尾根へ向かいます。
南側尾根
51南側尾根

堀切??
南側尾根へ向かうと、ここにも堀切跡のような地形がありますが、こちらは二重堀切のようになっていますが、そのうちの一本は、明らかに後世のもののようです。もう一本はどうなんでしょうかねえ?
53南側尾根堀切かも

【西側台地上】
西側の台地上は、広い平坦地になっており、今では竹藪や雑木林、或いは畑地等になっています。私は、ここも城域ではないかと思うのですが・・・。それでなくては、西側の一部(登城口周辺)を除いて、全てが急崖になっていながら、段丘上の広い平坦地の意味がないように思われます。
57西側台地

IMG_8280

見張り台?
西側台地の南西端は、少し高くなっており、その向こうは急崖になっています。ここが、日本城郭大系に「西方に10m×6mの一段高い見張り台と考えられる地がある」と記されているところでしょうか?

59見張り台では

【平時の城館跡?】
尾根でU字型に囲まれた麓は、かなり広い平坦地になっていますが、私は、ここには平時の城館が建てられていたのではと思います。
城館跡?
当写真は、主郭と二郭間の堀切の底から見下ろしたものです。
54城館跡かも

池(井戸)?
U字型で囲まれた麓部分には、南北の尾根を繋ぐ畝があり、付け根部分が池になっている。これは井戸として使われていたのではないかと想像するのですが・・・?
55池

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コメント

三宅(2023/12/03)

我が家の古文書に伊勢の國、三宅の里、出自の記載があります。
身分は加藤清正の家臣でその後、黒田家へ仕えています現場を
確かめたく、福岡から三回程訪れましたが、詳細は不明のままに
合掌し散酒して帰ります、何か判れば教えて下さい。

三宅(2023/12/03)

我が家の古文書に伊勢の國、三宅の里、出自の記載があります。
身分は加藤清正公の家臣でその後、黒田家へ仕えています、現場を
確かめたく、福岡から三回程訪れましたが、詳細は不明のままに
合掌し散酒して帰ります、何か判れば教えて下さい。

タクジロー(2023/12/10)

三宅さま
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
ひょっとしたら「鈴鹿市史」が手に入ったら多少なりとも資料等々が掲載されているかもしれませんが、残念ながら、私の実家は鈴鹿市に接した四日市市であるものの資料等を持ち合わせていません。
また、城跡は遺構はかなり良好に残っているものの、説明板等は全くありませんでした。
実家に帰省した際に、鈴鹿市史等々が手に入るとか、鈴鹿市に住んでいる昔の友人に会ったりして、詳細が多少なりとも分かったら連絡させて頂きます。
申し訳ありませんが、現在は何も分かりません。

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