肥後 熊本城(熊本市)

大天守と小天守(南東から)

築城の名手・加藤清正による天下の名城で、日本三名城のひとつ

別名

銀杏城

所在地

熊本県熊本市本丸1-1

形状

平山城(標高50m)

現状・遺構等

遺構:大天守・小天守(復元)、本丸御殿(復元)、現存櫓(宇土櫓・続多聞・付櫓・源之進櫓・四間櫓・十四間櫓・七間櫓・田子櫓・東十八間櫓・北十八間櫓・五間櫓・平櫓・監物櫓)、現存門(不開門・西櫓門)、移築門(櫨方門)、竹の丸塀(現存)、竹丸の馬具櫓(復元)、頬当御門(復元)、西大手櫓門(復元)、数奇屋丸二階大広間(復元)、【平成15年以降の復元】戌亥櫓、元太鼓櫓、未申櫓、南大手門、飯田丸五階櫓、各曲輪の石垣(現存)、土塁(現存)、備前堀(現存)、空堀(現存)

【熊本城400年祭復元整備計画(2012/11現在】
熊本城は、2007年が築城400年にあたり、それを機に「熊本城400年祭復元整備計画」がたてられた。その基本方針は、「加藤清正が築城した98haの城郭全体を対象に、往時の姿に復元整備することを目指す」という壮大な計画である。幸い、熊本城は絵地図や古文書をはじめとする資料が多く残されており、この財産を生かして、史実に基づいた歴史的建造物の復元・保存を行うそうです。
熊本城公式ホームページより
《復元完了した建物》
1.戌亥櫓<平成15年8月完成>
2.元太鼓櫓<平成15年12月完成>
3.未申櫓<平成15年8月完成>
4.南大手門<平成14年10月完成>
5.飯田丸五階櫓<平成17年2月完成>
6.本丸御殿大広間<平成20年3月完成>
《復元予定の建物》
<第Ⅱ期復元整備計画による復元予定建造物>
7.馬具櫓および続塀(ばぐやぐらおよびつづきへい)
8.平左衛門丸の塀(へいざえもんまるのへい)
9.西櫓御門および百間櫓(にしやぐらごもんおよびひゃっけんやぐら)
<今後の復元予定建造物>
10.竹の丸五階櫓(たけのまるごかいやぐら)
11.数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)
12.御裏五階櫓(おんうらごかいやぐら)
13.櫨方三階櫓(はぜかたさんかいやぐら)
14.北大手門(きたおおてもん)

満足度

★★★★★

訪城日

1993/06/17
2007/01/24
2012/11/15

歴史等

天正15年(1587)、豊臣秀吉は九州平定によって島津氏を薩摩・大隅に押し込めると、まだ小さな国人衆が根を張っている肥後国に、同じ織田家旧臣ながら気の合わない佐々成政を送り込んだ。国人衆を押え切れずに成政が問題を起こすのをねらってのことともいう。案の定、翌年には一揆が起こり、秀吉は諸大名の援助のもとに一揆を鎮圧したが、成政の失政を問うて引責切腹に処し、同時に有力国人衆も切腹させて、中世的な土豪勢力を排除した。
天正16年(1588)、肥後は2分され南半国は宇土城に入った小西行長に与えられ、北半国25万石は加藤清正に与えられた。
当初清正は、鹿子木氏の拠点であった茶臼山西南麓の隈本城に入ったが、この隈本城は構造も古く手狭であったことから、東の千葉城まで含め茶臼山全域を取り込んだ大城郭にした。
築城の時期については諸説あるが、天正18年(1590)頃起工し、慶長5年(1600)頃には一応の工事を終わって、同12年(1607)に内装部分まで完成したのではないかという。そして、この時に「隈本」を「熊本」に変えたという。
城域は東西1,700m、南北1,300mに及ぶ。本丸には大小二つの天守閣、宇土櫓をはじめとする49基の櫓、18の櫓門、29の城門が配された。大天守は、標高50mの最高所に三層六階地下一階、高さ44mで、小天守は二層四階地下一階、高さ31mである。
宇土櫓は、小西行長の宇土城の天守を移築したとされ、三層四階地下一階である。尤も、宇土城天守閣移築説は、平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されているとのことであるが。
また、これらの大建築と流麗な曲線でなだらかな勾配を持った石垣はさすが天下の三名城と呼ばれるだけのことはある。
清正がこれだけの堅城を築いたのは、清正は豊臣恩顧を貫いた人であり、豊臣秀頼成人ののち、徳川家康が天下を豊臣家に返さなければ、秀頼を熊本城に迎え、幕府と一戦交えるつもりであったという説もある。しかしながら、清正は二条城で家康・秀頼の対面に立ち合い、その後熊本に帰る船中で発病し間もなく死去してしまった。徳川氏による毒殺ではという巷説もある。
清正の死後、子・忠広が跡を継ぐが幕府の豊臣恩顧の大名取り潰し策で、駿河大納言忠長に絡む陰謀の疑いをかけられ領地没収のうえ、出羽丸岡城へ配流となり45年間に及んだ加藤氏の肥後支配は終わった。
寛永9年(1632)豊前小倉城主細川忠利が入封した。細川氏は54万石を領して、幕末維新まで11代、240年にわたり在城した。
明治10年、西南戦争では、熊本鎮台司令官谷千城以下3,400名が守る熊本城を、西郷隆盛に率いられた薩摩軍13,000名が攻めるが、ついに落せず撤退した。加藤清正築城の熊本城は、近代戦にも通用することを証明した。しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失し、宇土櫓ほか12棟が残り国の重要文化財となっている。天守閣焼失の原因は、戦闘で目標になるのを避けるため?に司令長官の谷干城が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けた、という説が現在では有力とのことである。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

熊本城は、本丸御殿はじめ、櫓や城門など往時の建物が次々に復元されています。
今回は、本丸御殿が再建されてから初めての登城です。
以前でさえも、高石垣群、大規模な枡形虎口の石垣、現存櫓や門等々、見どころ満載であったが、益々、見応えのある城になりました。
兎に角、広い上に、見どころが多すぎて、疲れるほどでした(*^_^*)。
何度、登城しても素晴らしい城です(*^_^*)。
(2012/11/15登城して)

ギャラリー

熊本城絵図(配布パンフレットより)  ~画面をクリックにて拡大~ 
熊本城絵図_6[1]

【本丸】
【天守閣】
大天守と小天守(西側から)
大天守は3層6階地下1階で、石垣の上から高さ約30mある。四面に千鳥破風を配し、最上階の南北には唐破風を据えている。
小天守は大天守成立後に増築されたもので、2層4階地下1階で、高さ約19mある。内部は居住を意識した造りになっており、地下には井戸も掘られ最悪の場合天守のみでの籠城も可能な構造になっている。
現在の天守閣は昭和35年(1960)に、鉄筋コンクリートで外観復元されたもので、内部は熊本博物館分館となっている。
天守閣大小

大天守と小天守(南西から)
天守閣

大天守から西側を
天守の北西(写真右)には宇土櫓が建ち、西奥(写真正面奥)には奉行丸と西出丸があり、復元された西大手櫓門や未申櫓(写真左奥)などが見える。写真右下は、発掘された石垣の石が印(Numberなど)がつけられ並べられている。まだまだ、多くの石垣等が復元されていくのでしょう。
天守眺望宇土櫓

大天守から北側(小天守)を
大天守の北側には続櫓を経て小天守があるが、こうして見ると、ガラスが張ってあるのが見えすぎて、うんざりする?
天守眺望小天守

大天守からの眺望(東側)
右に本丸御殿の一部、右奥は長局櫓。
天守眺望長局櫓

大天守から南側(本丸御殿)を
天守眺望本丸御殿

【本丸御殿】
「熊本城400年祭復元整備計画」により復元された「本丸御殿」が平成20年4月20日午後1時から一般公開された。
往時の本丸御殿は、畳数1570畳、部屋数53もある建物群で、藩主の居間、対面所や台所等の機能が備わっていたが、今回、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)と大御台所(おおおんだいどころ)を復元した。
見所は、障壁画の復元を行った「昭君之間、若松之間」や全国的にも類例の無い地下通路「闇り通路(くらがりつうろ)」などでしょう。
本丸御殿

本丸御殿1

本丸御殿「昭君之間」
本丸御殿の中で最も格式の高い部屋で、床の間や違棚、付書院などを持つ書院造りとなっている。
壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれている。
「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語であるという説もある。加藤清正は豊臣秀吉子の遺児・秀頼に万が一のときは、この熊本城に秀頼を迎え入れ、西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」というのである。
本丸御殿昭君の間

本丸御殿「若松之間の障壁画」
対面所(藩主の会見の場)で、西側に床の間と付書院、南側に違棚が備えられた書院造。名前の通り、床壁や襖に若松の絵が描かれている。
本丸御殿若松の間

本丸御殿「闇り通路(くらがりつうろ)」
闇り御門から続く闇り通路は、本丸御殿大広間の下に設けられた珍しい地下通路で、石垣の上に架けられた巨大な赤松の梁や、ケヤキの柱を備え、本丸御殿往時の様相を取り戻している。
闇り通路

【数寄屋丸二階御広間】
数寄屋丸御広間は、秀吉築城の大坂城の「山里丸」の流れをひくもので、熊本城における文化的遊興の空間で、茶会、歌会、能などを楽しんだ建物と考えられている。しかし、南面には狭間や石落としを備え、また西隅には五階櫓が建ち、実戦に十分耐えうる構造を持っていた。現在の建物は平成元年(1989)にに市制100周年を記念して復元された。
数寄屋丸二階御広間

【櫓】
宇土櫓(現存、国重要文化財)
本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、ちょっとした城の天守閣よりもるっぱです。熊本城に現存する唯一の多層櫓で、かつては宇土城天守閣を移築したとの説があったが、平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されているようだ。
尚、三層五階櫓は当櫓の他、飯田丸五階櫓、竹之丸五階櫓、数寄屋丸五階櫓、御裏五階櫓と5基もあった。
宇土櫓

宇土櫓(城内側から)
宇土櫓城内から

飯田丸五階櫓と備前堀
南西隅に建つ三層五階建ての櫓で、飯田丸の名称は加藤清正の重臣、飯田覚兵衛が管理していたことから、こう呼ばれるようになった。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられている。西面には西櫓門を備え、出撃することも可能で、飯田丸だけでも小さな城の機能を持っているといえる。明治になり熊本城に鎮台が置かれた際に取り壊されてしまったが、平成17年に復元完成した。
備前掘の由来は、加藤清正の重臣で、前国主佐々成政の一門の佐々備前の屋敷が付近にあったことから、こう呼ばれたと伝えられている。熊本城の東から南にかけては、坪井川を内堀に見立てていたため、水堀はここ1ヶ所だけであった。
飯田丸五階櫓

東竹の丸現存櫓群(現存、国重要文化財)
熊本城本丸内「東竹の丸」には、高石垣の上に西南戦争の火災にも焼け残った櫓が建ち並び、国指定の重要文化財に指定されている。
南から田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源乃進櫓、少し間を置いて東十八間櫓、北十八間櫓、五間櫓、不開門、平櫓と続く。これらの櫓は、普段は倉庫として使われていたと思われるが、外側には「石落し」や「狭間」があり、いざというときには戦える構造となっている。ちなみに熊本城では長さを現す単位「一間」は6尺5寸=約197cmである。
東十八間櫓(右)と源之進櫓(左)
東竹の丸櫓群

北十八間櫓(右)と東十八間櫓(左)
東十八間櫓と北十八間櫓

五間櫓
五間櫓

長塀
東の平御櫓から西の馬具櫓まで約242mの塀が続いている。現存する城郭の塀の中では最長を誇る。
長塀

【城門】
頬当御門
天守閣へ向かう正面入口である。この門は城を顔に見立てたとき、ちょうど顔の前に当てる甲冑の部品の頬当てに見えることから、頬当御門と呼ばれるようになったと言われている。写真左端は宇土櫓、右端は大天守。
頬当御門

不開門(現存、国重要文化財)
この門は城の鬼門である北東に位置する。昔の陰陽道ではこの方角は塞いでも、開け放してもいけないとされ、門は造るが普段は閉ざし、不浄なものを運ぶときだけこの門を開いたと言われている。国の重要文化財に指定されている。
不開門

櫨方門
櫨方門

【枡形虎口石垣】
竹の丸枡形①
本丸南側にある竹の丸から本丸御殿脇に至る登城道は、幾重もの大規模な枡形虎口が続き、見応え満点です。
虎口本丸南3

竹の丸枡形②
虎口本丸南2

竹の丸枡形③
写真手前右の石垣上には、往時は独立五階櫓が建っていた。
虎口本丸南1

二様の石垣①
幾重も続く枡形虎口を登って行くと、右手前に本丸御殿南西にある石垣が現れる。この石垣は隅部の反り(勾配)や積み方が著しく異なっている姿が同時に見れることから「二様の石垣」と云われている。
右手前の勾配の緩やかな石垣が、築城当初の加藤氏時代のもので、左奥の勾配の急な石垣は細川忠利の代に本丸御殿増築の際に積み足したものである。
また、熊本城の石垣は全て「打ち込みハギ」で積まれているが、「二様の石垣」は同じ打ち込みハギでも隅石の積み方に違いがあり、加藤氏時代の石垣は、同じような大きさの隅石を使っており、細川氏時代の石垣は「算木積み」で築かれている。、

二様の石垣

二様の石垣②
二様の石垣2

本丸御殿と数寄屋丸二階御広間間の枡形虎口石垣
虎口本丸御殿西枡形虎口

本丸東側(東十八間櫓下)の枡形虎口石垣
虎口北東

【西出丸】
熊本城の東は急峻な崖で、高石垣をめぐらしているが、西はなだらかな斜面が続き、弱点となっている。そこで清正は西に2重の空堀を巡らせ、空堀の間に出丸を築いた。「西から敵に攻撃されてもここだけで100日は持ちこたえられる。」と清正が豪語したと言われている。
旧藩時代、西出丸の北半分には「西の御蔵」という巨大な米倉が設けられ、南半分(奉行丸)は奉行所が置かれていた。
明治に入り鎮台が置かれ、後の司令長官桐野利明が帥だった時代に、この熊本城防衛の要でもある西出丸の石垣が撤去されたという。現在の西出丸一帯の石垣は昭和45年(1970)から49(1974)にかけて積み直されたものである。

戌亥櫓(いぬいやぐら)
西出丸の戌亥(北西)の方向に位置する木造二層三階の隅櫓で、平成15年8月に復元された。
戌亥櫓

西大手櫓門
熊本城は西・南・北の3つの大手門を持ち、その中で最も格式の高い門とされている。 
西大手門

南大手門
西、南、北と3ヶ所ある本丸への大手門のうち、最大の大手門。平成14年10月復元された。
南大手門

南大手門枡形
南大手門2

未申櫓(ひつじさるやぐら)
西出丸の未申(南西)の方向に位置する木造二重三階の隅櫓で、平成15年8月に復元された。
未申櫓

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今日のヤフカテゴリー厳選サイト集(2009/02/03)

ヤフーカテゴリーへの掲載、おめでとうございます。

当サイトではヤフーカテゴリーに新規登録されてたサイト様の中から、その日で最も優秀な1サイトだけを厳選して紹介をしています。

本日新規登録サイトの中で、貴サイト様が最も興味を引きましたので、
「今日のヤフーカテゴリー厳選サイト集」に勝手ながら登録をさせて頂きました。

かなり勉強になりました。
http://www.vitamin-site.com/

もし、掲載にあたって都合が悪い様でしたら、お手数ではございますが、「掲載不可」とお教えいただけましたら、速やかに削除させていただきます。

又、紹介文等にリクエストがございましたら、出来る限りご希望に添えます様にに変更いたしますので、ご一報くださいませ。

※もしよろしければ、貴サイトの片隅にでも、当サイトへリンクを張っていただければ幸いです。

タクジロー(2009/02/04)

身に余る寸評を頂き、ありがとうございます。
大好きな城のことですから、これからも一城でも多く登城し紹介したいと思っております。
早速、リンクも張らせて戴きます。

山中(2014/08/11)

はじめまして。私東京でテレビの制作をしております。IVSテレビの山中と申します。この度は番組制作の際に使用する熊本城の画像を探しており、画像の方を提供していただけないか伺いたくご連絡させて頂きました。お返事の方よろしくお願い致します。

タクジロー(2014/08/11)

山中さま
どうぞ、ご自由に使用してください。
尚、放映日時と番組名を教えて戴ければ幸いです。

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