発掘された百間堀
庄内の豪族武藤氏の支城、江戸期には加藤清正嫡子忠廣が配流されてきた
所在地
山形県鶴岡市丸岡字町の内、天澤寺の南
天澤寺:丸岡字町の内36、電話0235-57-2252
形状
平城
現状・遺構等
現状:県指定史跡
遺構等:水堀、泉水(百間堀)、庭石(巫子石、大夫石)、土塁、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/05/20
歴史等
丸岡は、庄内と内陸を結ぶ旧六十里越街道に対する要衝の地であり、鎌倉時代から天正年間(1573~91)
まで庄内を支配していた武藤氏の支城が置かれていた。
武藤氏のあと上杉氏、さらに最上氏が領有したが、元和元年(1615)の一国一城令により城の楼閣は取り払われた。
最上氏の改易の後、元和8年(1622)酒井氏領となった。
寛永9年(1632)、加藤清正の嫡子・肥後54万石の領主忠廣が、幕府に身に覚えのない嫌疑をかけられ、領地を没収され、
庄内藩酒井氏に1万石の捨て扶持で、預けられた。家族のうち、この丸岡に同行を許されたのは生母の正応院のみで、妻や子、
兄弟は四散させられた。まさに、幕府の外様大名の取り潰し政策の犠牲となったのである。
酒井氏は、暖かい配慮をし、この城跡に忠廣と生母正応院の居館、女中の長つぼね、家臣の長屋などを新築した。
この館が丸岡大火によって焼失したため、忠廣が京都にあった館を移築し、亡くなる承応2年(1653)まで居住した。
忠廣没後、領地は幕府領となった。
『現地説明板参照』
現況・登城記・感想等
天澤寺で清正の幟や忠廣に関する説明板を見て、「あ~! ここだったんだ。徳川の陰謀によって流された所は!」と驚いた。そうなると、
益々興味がわき、いろんな想像が掻き立てられる。
それはさておき、丸岡城址は、天澤寺のすぐ南に隣接し、発掘調査中(見た目には放りっぱなしのような感じだったが)なのであろうか、
ただの原っぱのようにになっている。
城址の広さは約2haで、南側は住宅地になっているが、北側(寺との間)には水堀がある(北東部にも一部残っている)。堀は、
往時は4方を囲んでいたそうだが、残っていた北側部分が復元されたのだそうだ。ただ、この水堀、あまりきれいではない。もう少し、
きれいに復元すればいいのにと思うのは私だけだろうか?
また、奥庭の泉水(百間堀)と庭石(神子石、大夫石)も残っているが、これらも中途半端な発掘?の感じがした。
他にも、土塁や建物跡らしきものが散見されたが、何とも雑な感じがした。発掘の最中だからだろうか?ならいいんだけど・・・。
きちんと発掘され、復元されたら素晴らしい城址になるだろう。まだ発掘調査中であることを祈る!!
尚、天澤寺には、「清正墓」や「清正閣」や「忠廣の家臣らの墓」等々もある。
(2008/05/20登城して)
ギャラリー
丸岡城址付近案内図(現地説明板より)
~クリックにて拡大画面に~
石碑と案内板
丸岡城址は、天澤寺のすぐ南に隣接し、発掘調査中(見た目には放りっぱなしのような感じだったが)
なのであろうか、ただの原っぱのようにになっている。
水堀
北側(寺との間)には水堀がある。堀は、往時は4方を囲んでいたそうだが、
残っていた北側部分が復元されたのだそうだ。ただ、この水堀、あまりきれいではない。もう少し、
きれいに復元すればいいのにと思うのは私だけだろうか?
北東部に一部残る水堀
泉水(百間堀)
丸岡の里人は忠廣屋敷の奥庭の泉水を百間堀と呼んでいる。(現地石碑説明文より)
大夫石・巫子石
忠廣が両親を一時密葬した聖地大夫石は清正の骨壷 巫女石の地には生母正応院が土葬された。
(現地石碑説明文より)
清正閣
加藤忠廣公と正応院様は、清正公の御遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に治め、
丸岡大火の翌年に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。この清正閣も五輪塔、神子石・太夫石とならぶ重要な史跡である。
はじめは土饅頭の上に石碑が載っていたのであったが、天保年間に祠を建てた。中の鉾型の碑は、
熊本特産の島崎石であり熊本から運んだものである。昭和24年、清正公遺骨探検の調査では第一番目にこの閣の下が発掘され、その結果、
地下2メートルの地点から清正公着用と推定される鎧が出土し、天澤寺に保存されている。尚、そばの小さな五輪塔は、
密かに野に下した忠廣公の子供のものと言われている。(現地説明板より)
清正墓