角田高校下の切岸と城址碑
伊達家「御一門筆頭」の石川氏270年の居城、仙台藩21要害の一つ
別名
角田要害、臥牛館、金鶏館
所在地
宮城県角田市角田字牛館
【アクセス】
小高い丘に建つ角田高校一帯が城跡で、近くにある郷土資料館に城門が移築されています。
角田高校:角田市角田牛舘1、電話0224-63-3001
長泉寺:角田市角田長泉寺69、電話0224-62-1004
角田郷土資料館:角田市角田町17、電話0224-62-2527
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 角田高校、角田中学校
【遺構等】 切岸、堀、移築城門、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2015/10/27
歴史等
角田城は、永禄年間(1558~1570)に伊達氏の庶流である田手氏が、天正19年(1591)には伊達成実(伊達政宗の父の従兄弟)が居城した。
慶長3年(1598)には志田郡の松山城(千石城)から石川昭光(政宗の叔父)が入封し、明治を迎えるまで石川氏代々の居城となった。
石川氏は、もとは福島県石川町付近を治める大名であったが、第24代石川晴光に嗣子がいなかったため、永禄6年(1563)に伊達晴宗(政宗の祖父)の四男である昭光を養子に迎え、永禄11年(1568)昭光が石川氏の家督を継いだ。
のち、昭光は秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、秀吉から初療を没収され、甥の伊達政宗を頼った。
はじめ、松山城(千石城)を与えられたが、慶長3年(1598)に角田1万石を与えられ、初代角田城主となった。
石川氏は、その後、明治を迎えるまでの約270年間にわたって角田を治めるとともに、伊達家臣団の中で最も価格の高い「御一門筆頭」という家柄として藩内でも重要な役割を果たした。
尚、角田城は城に準じて正式には角田要害と呼ばれ、仙台藩内にあった21ヵ所の要害の1つであった。
『「現地説明板」、「郷土資料館パンフ(角田の歴史散歩)」他より』
現況・登城記・感想等
角田城跡は、本丸跡に角田高校、二の丸跡に角田中学校が建っていますが、学校造成のため、城の遺構はほとんど残っておらず、高校の下の切岸に僅かに面影を残すのみです。
城の周囲には水堀がめぐらされていたようですが、今は多くが埋め立てられ、水路になって面影は全くありません。
尚、長泉寺に城の表門である「臥牛門」が、また、近くにある郷土資料館に薬研門形式の城門が移築されていますが、「臥牛門」を見落としてしまいました(;>_<;)。
(2015/10/27訪れて)
ギャラリー
角田城縄張りと現在(現地説明板)
角田高校下の切岸と城址碑
角田城跡は、学校造成のため、城の遺構はほとんど残っておらず、角田高校の下の切岸に僅かに面影を残すのみです。切岸下部に城址碑が。
郷土資料館脇に移築現存する薬医門形式の城門