羽後 秋田城(秋田市)

復元された鵜ノ木地区の古代沼と外郭東門、築地塀

古代律令国家が東北出羽経営の拠点とした城

別名

出羽柵(いではのき)  

所在地

秋田県秋田市寺内字焼山

形状

平山城

現状・遺構等

現状:高清水公園(山林・護国神社)
遺構等:復元外郭東門・復元築地塀・建物跡・水洗式厠跡・井戸・土塁・郭跡・沼跡・石碑・説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2003/03/23

歴史等

8世紀当時、奈良朝廷は東北地方の蝦夷征服を進め和銅元年(708)に越後国出羽郡を設置し、和銅5年(712) この出羽郡と陸奥国に属していた最上川流域の置賜(おきたま)・最上の2郡を合わせて出羽国に昇格させた。この前後、 拠点として現在の庄内地方に出羽柵(でわのき・いではのき)が置かれ、天平5年(733)に高清水丘陵に移設され、天平宝字4年(760) 頃に秋田城に改称されたらしい。また8世紀後期には国府が置かれた。
延暦23年(804)、蝦夷の反乱が激しくなり秋田城は秋田郡となり国府は別の場所に移転されたらしいが、 その後も蝦夷対策のため完全に停止されることなく出羽北部の軍事・行政拠点として存続した。 11世紀の遺構が確認されておりこの頃までは存続したようである。
『日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」参照』

現況・登城記・感想等

高清水丘陵の非常に広い区域が史跡(90haの区域が国指定史跡)になっている。
奈良・平安時代という遥か昔の史跡でありながら、良好に残る遺構が発掘・復元され、当時の姿を見せてくれる。
(2003/03/23訪城後に)

ギャラリー

秋田城跡の図          ~クリックにて拡大画面に~
秋田城は、土塀に屋根を上げ瓦で葺いた「築地塀」で囲まれていた。その範囲は、東西南北約550mで、 総延長2.2kmにもなり、これを「外郭築地塀」と呼んでいる。外郭築地塀に囲まれた、ほぼ中央に、さらに東西94m、 南北77mの横長の一画があり、これを政庁と呼んでいる。

外郭
 


【鵜ノ木地区】
鵜ノ木地区は、秋田城跡を巡る東辺外郭築地塀の外側にあたり、 発掘調査の結果、掘立式の建物跡や井戸、沼跡など沢山の遺構が発見された。
建物跡は、東西、南北に整然と並び、その一画には杉の木の井筒がおさめられた立派な井戸が作られている。井戸の底からは、 高清水の出羽柵が遷された翌年にあたる「天平六年月」(734)の木簡や「(天平)勝宝五年調米」(753)と書かれた納税を示す木簡、又、 沼を埋めた整地土からは「・・・玉寺」と書かれた土器も発見されている。
鵜ノ木地区は、これらの遺構や遺物などから奈良時代には重要な役所、また平安時代のある時期には寺としても使われたことが窺がわれる。


外郭東門と築地塀(平成10年に復元)
東門の復元整備は平成6年から平成9年にかけて実施した。東門の復元に当たっては、天平5年(733) の創建時を基本とした。組み方は釘を使わず、すべてほぞ式で組み、主要部材にはスギを使用した。部材の表面加工は、 すべて古代に使用されたヤリガンナで仕上げている。屋根を支える柱上部の肘木(ひじき)は、舟形をした舟肘木(ふなひじき) と呼ばれるもので、シンプルながら素朴で重量感のある門に復元されている。築地塀は、外郭東門の北側に15m、南側に30mを復元しました。 積み土は幅2.1m、長さ3mの型枠を作り、その中で厚さ5㎝に敷きならした土を3㎝に突き固めながら積み上げた。


復元された鵜ノ木地区の古代沼や東門等


天平時代の井戸
加工した杉材を円形に組合せて造られている。中から「天平六月」と書かれた木簡が発見されており、 出羽柵が高清水の岡に遷された奈良時代の天平5年(733)頃に造られたものと考えられる。(文化庁・秋田教育委員会)

平安時代の井戸
耕造は厚い板を3~4段井籠組にし、その外側に板を縦に2~3重に立て並べた簡単なものである。 水は古代から涸れることなく、今もこんこんと湧き出ている。

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