二の丸と北の丸間の堀切
後三年の役時代の清原氏の金沢柵が前身とされる中世の山城
読み方
かねざわじょう
別名
金沢柵(金沢城の前身の城柵とされています)
所在地
秋田県横手市金沢中野
【アクセス】
国道13号沿い「後三年の役金沢資料館」から150m程東進して突き当りが光蓮寺の所を右折し、50m程南下して左折します(案内有)。このまま金沢八幡宮下の駐車場まで車で上がれます。
後三年の役金沢資料館:横手市金沢中野字根小屋102-4、電話0182-37-3510
光蓮寺:横手市金沢中野根小屋235、電話0182-37-2206
所要時間
今回の見学時間は45分
形状
山城(標高172m、比高91m)
現状・遺構等
【現状】 金沢公園、神社、山林(国指定史跡)
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、遺構案内板、説明板など
満足度
★★☆☆☆
歴史等
金沢城の前身とされる金沢柵は、平安時代に清原氏によって築かれた。
前九年の役(1051~62)により奥羽一帯を支配していた清原一族の内紛は源義家の介入により後三年の役(1083~87)へと発展し、横手盆地一帯に戦火が広がった。
沼の柵で勝利した清原家衡は叔父武衡の薦めで、より堅固な金沢柵に居城を移して、源義家・清原清衡連合軍を迎え撃ったが兵糧攻めにより落城した。
金沢柵は、中世になっても使用され、長禄2年(1458)に南部氏の家臣金沢右京亮が入り、文明2年(1470)まで居館とした。
その後、小野寺氏の家臣金沢権十郎が居城とした。
慶長7年(1602)、佐竹義宣が出羽に入封すると、金沢城は東将監・梶原美濃が受け取り、元和8年(1622)に破却された。
『「日本城郭大系2」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
金沢城の前身とされる金沢柵は、考古学的には正確な位置は特定されていません。
一般には、本丸跡・二の丸跡・北の丸跡・西の丸跡・武者走・堀などの伝承がある金沢八幡宮周辺と言われていますが、ここからは11世紀の遺物は発見されておらず、全てが15世紀のもののようです。
今回、訪れた時にも横手市教育委員会の方々が西の丸跡の発掘調査をしており、700本もの掘立柱跡が見つかったとのことですが、全て15~16世紀頃のもので金沢城時代のものとのことでした。
というわけで、当城跡は「金沢柵」というより「金沢城跡」というべきでしょう。
金沢城は山頂部に本丸を置き、鞍部(兵糧蔵)を挟んで西側の現在八幡神社本殿が建つ二の丸、二の丸と堀切を隔ててた北側に北の丸、駐車場から南西に延びる支尾根に西の曲輪が配置されています。
遺構としては、各曲輪や周囲に土塁や堀切などが確認できましたが、あまり見応えがあるとはいえません。
尚、本丸の東に延びる尾根には5連続堀切があるらしいのですが、あまりにも薮がひどくて突入を断念しました(/。ヽ)。
また本丸から兵糧蔵にかけての斜面には畝状竪堀があるそうですが、これまた強烈な藪で分かりませんでした(/。ヽ)。
(2015/10/26登城して)
ギャラリー
金沢城縄張略図(現地案内板より)
金沢城は山頂部に本丸を置き、鞍部(兵糧蔵)を挟んで西側の現在八幡神社本殿が建つ二の丸、二の丸と堀切を隔ててた北側に北の丸、駐車場から南西に伸びる支尾根に西の曲輪が配置されています。
【登城記】
金沢城跡は、二の丸跡に鎮座する金沢八幡宮のすぐ下まで車で登って行け、そこに駐車場があります。
二の丸へ向かう
駐車場の北西にある階段を登ると分岐点があり、真っ直ぐ向かうと二の丸跡、右へ曲ると本丸跡方面への道になります。まずは二の丸を目指して真っ直ぐ進むと、正面に門のような建物が見えて来ます。
兜杉
建物は門ではなく、「兜杉」を保護?するための建物でした。「兜杉」は、源義家が凱旋のとき愛用の兜を埋めて石を置き、そばに記念の為に清原(藤原)清衛が植えた杉と伝えられているそうですが、昭和58年に焼失し、切株だけになっています。
二の丸跡(金沢八幡宮)
二の丸跡には金沢八幡宮が鎮座しています。金沢八幡宮は、後三年の役(1083~87)のあとの寛治7年(1093)、源義家の命を受けた藤原(清原)清衛によって石清水八幡宮の神霊を勧請して建立されました。
江戸時代には義家の弟・義光の末裔である佐竹氏が秋田藩主となったため、厚く信仰され、慶長9年(1604)以来、十数回の修改築がなされています。
兵糧蔵跡
二の丸の東下の兵糧倉跡へ南側の石段を下りて行きます。この曲輪跡からは焼米が発掘されたことから米蔵があったとされています。本丸と二の丸間の鞍部に設けられ、東側(本丸側)には高い土塁が設けられています。
本丸へ
兵糧蔵のあった曲輪と本丸を区切る土塁脇(南側)を通って、本丸へ登って行きます。
本丸跡
本丸は、80m×50mほどある広い曲輪です。
本丸東下の畝状竪堀
本丸の東下にはちょっとした腰曲輪があり、その斜面には畝状竪堀があるらしいのですが、あまりにも薮がひどくて分かりません。そのように見ればそれらしいのですがネ(苦笑)。
また、その南東部から東へ延びる尾根には5連続堀切があるらしいのですが、これまた凄い薮のため、突入するのを断念しました(/。ヽ)。
北の丸跡
本丸から兵糧蔵跡へ戻り、二の丸の東~北下を通って北の丸へ。北の丸は二の丸の北側下にあり、縁部には高さ50cmほどの土塁が築かれています。
二の丸と北の丸間の堀切
二の丸と北の丸間は堀切で断ち切られていますが、堀底道として利用されていたのではないでしょうか。北の丸側(写真右)の土塁の高さは1.5mほどですが、二の丸側(写真左)の切岸は7~8mほどあります。
西の丸へ
一旦、駐車場へ戻り、今度は南西へ延びる西の丸跡へ行きます。
西の丸跡
西の丸は、細長い曲輪で、長さ100m以上はゆうにあるでしょう。
西の丸を断ち切る堀切
西の丸の中央部辺りには堀切が確認できます。幅5~6m、深さ2m弱ほどですが、勿論、往時はもっと深かったことでしょう。
発掘調査
西の丸跡の西端部では横手市教育委員会の方々20人ほどの人が発掘調査をしており、その様子をみることができました。700本もの掘立柱跡が見つかったとのことですが、全て15~16世紀頃のもので金沢城時代のものとのことです。
教育委員会の方の話によると、後三年の役金沢資料館の近くでは金沢柵時代の遺構等が発掘されているが、この山城跡からは金沢柵に関する遺構は見付かっていないとのことでした。
5連続堀切(五重連の空堀)
見学を終え、次の城めぐりへ向かうべく車で下りて行くと、左手に堀切のような地形があり、その前に高札型の説明板が立っていました。その堀切は、先程、あまりの藪で行けなかった5連続堀切の一つでした。登って行って観たいところですが、とても登っていけるような傾斜ではないし、これで満足することにしました。