岩代 福島城(福島市)

福島城の唯一の遺構の土塁

板倉氏3万石の城

別名

杉妻城(すぎのめじょう)、杉目城、大仏城

所在地

福島県福島市杉妻町2-16(福島県庁) 電話024-521-1111(代表)
【アクセス】
福島県庁付近一帯が城跡なので、すぐわかると思います。

所要時間

福島城の総面積は5ヘクタールえお、3万石の大名の居城としては大規模なもので城域全てを廻るには、ゆうに1時間以上は架かると思います。
私は、県庁裏手の土塁付近と紅葉山公園、阿武隈川付近だけでしたが、40分以上かかりました。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 福島県庁、宅地等
【遺構等】 庭園跡、土塁、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2018/10/13

歴史等

この地には、古くは平安時代末に福島の地を治めた信夫庄司佐藤氏一族の杉目太郎行信が居城した杉妻城があったとされます。
室町時代には伊達氏の本城・支城として大仏城・杉妻城と称されました。応永20年(1413)には伊達持宗が大仏城に立て籠もり関東公方足利持氏に背いたとの記録もあり、戦国時代末まで伊達氏の居城でした。
豊臣秀吉の奥州仕置きにより、蒲生氏郷から信夫5万石を任された木村吉清は文禄元年(1592)頃、大森城から杉妻城に移り「福島城」と改称しました。
しかし、文禄4年(1595)秀吉の命で福島城は取り壊されました。
その後、当地は、上杉氏(1598~1664)、本多氏(1679~82)、堀田氏(1686~1700)が入部し、その間に幕領となるなど、頻繁に領主が変わりましたが、新たに城は築かれず、陣屋での支配が行われていました。
元禄15年(1702)、板倉氏が信濃から3万石で入り福島城の整備が行われました。以来、幕末まで約170年間は福島藩板倉氏の居城として機能しました。
『現地説明板ほか参照』

現況・登城記・感想等

福島県庁付近一帯が城跡で、南東部を阿武隈川が流れています。
県庁の南西裏手に福島城唯一の遺構の土塁があります。あまり期待していなかったのですが、折れを伴ったけっこう見応えのある土塁でしたヨ。
県庁の東側の紅葉山公園は、城主が住んでいた二の丸の殿中から眺めた庭園跡で城の面影が残っています。紅葉山公園には明治時代に出土したという大仏城時代の宝塔も移されてきています。
そして、県庁への入口を入って左手には立派な石碑と、その前に説明板が設置されています。
また、県庁正面へ向かう道路の中央に「大手門跡」の石碑も立っています。
(2018/10/13訪れて)

ギャラリー

福島城縄張図(現地説明板より)
板倉氏時代(江戸時代後半)の福島城の総面積は約25ヘクタールあり、天守はないものの3万石の大名の居城としては大規模な平城でした。城の南東を阿武隈川が流れ、その流水が内堀をめぐり、本丸・二の丸・三の丸などを土塁と内堀で囲まれ、二の丸には殿中があり、紅葉山公園は殿中の御庭でした。
福島城縄張図

大手門跡の碑
県庁の正面入口へ向かう道路を進むと、県庁入口の手前100m辺りの道路真ん中に大手門跡の石碑が立っています。
大手門跡

城跡碑
県庁の正面入口から入り左手へ少し歩いて行くと、立派な石碑が立ったいます。この石碑の手前側には説明板も設置されています。また、入口の左手の外側にも縄張図付きの説明板が設置されています。
石碑

紅葉山公園
県庁の東側の一段低くなったところには紅葉山公園がありますが、これは、城主が住んでいた二の丸の殿中から眺めた庭園跡です。
紅葉山公園

宝塔
紅葉山公園には明治時代に出土したという大仏城時代の宝塔も移されてきています。
宝塔

土塁
県庁の南西裏手には、福島城唯一の遺構である土塁が残っています。あまり期待していなかったのですが、折れを伴ったけっこう見応えのある土塁でしたヨ。
土塁1

土塁2

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