磐城 相馬中村城(相馬市)

本丸と東二の丸間の堀切と橋

平将門を遠祖とする相馬氏260年の本拠、伊達氏に備え北方の守りが堅い

別名

馬陵城

所在地

福島県相馬市中村字北町(馬陵公園)

形状

平山城(標高23m、比高約10m強)

現状・遺構等

【現状】馬陵公園
【遺構等】曲輪、土塁、水堀、空堀、堀切、城門(大手一ノ門)、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2007/08/14

歴史等

相馬中村城のはじまりは非常に古く、平安時代の延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時、西館(現在の西部一帯)に菅原敬実を置いて守らせたと伝える。
敬実は天神(北野神社)を氏神として館を構えていたが、後世になって源頼朝が平泉の藤原泰衡を討っての帰り道、天神林に馬をつなぎ菅原の館に宿営したと伝えられる。
その後、中村城は居住者の無かった時代もあり、中村氏や黒木氏が居住したこともあり、小高城の相馬氏がここに城代を置いたこともあって変遷を繰り返した。
慶長16年(1611)相馬藩主利胤の時、城の南下を流れていた宇多川をさらに南方に切りかえ、土木工事を盛んにおこして城を広げ、今見るような姿にして小高城からここに移った。
相馬氏は初代から幕末まで同じ子孫が貫いている。他の国々は転変しており、全国に2つしかない。南北朝時代・戦国時代・天下統一以後と、激動の中で果敢に戦い、また時勢に柔軟に処したのである。
関ヶ原合戦時、相馬領は北部は東軍方の伊達氏、南部は西軍方の佐竹氏と接していた。東西いずれに味方しても相馬領に侵入する恐れがあり、中立策をとった。合戦後、徳川家康により所領を没収されたが、経緯を説明し、旧領回復の嘆願が認められた。相馬氏と伊達氏は、戦国時代から仲が悪く、合戦を交えること30数回と伝えられる。家康にとっても、天下への野心を捨て切れない伊達氏は、心許すことの出来ない仮想敵国でもあったのである。家康は、相馬氏を伊達氏に対する押さえとして利用したのである。相馬氏も、それを理解し、本拠を領国の中央にある小高城から、北に偏し統治に不便な中村城へと移し伊達氏に備えたのである。
以来、中村城は明治まで260年間、6万石の城として続いた。
中村城は小規模ながら古くは蝦夷に、新しくは伊達氏に備えたため、北方に守り堅い名城と云われ、石垣が少なく土塁をめぐらし多くの濠に囲まれているのも特色で、よく古城の名残りをとどめている。
ただ1つ残る大手一の門は慶安元年(1648)の建築と伝えている。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」参照』

現況・登城記・感想等

相馬中村城は比高差10m強ほどの台地上に本丸を置き、それを取り囲むように東二の丸・西二の丸・南二の丸・北二の丸を置き、更にその外側に北三の丸・岡田塁・東三の丸・西三の丸などの曲輪群を配置した輪郭式平山城である。
城郭の規模は、東西600m×南北650mで、多くの曲輪の周囲には水堀(天然の水沼等も含む)が、また曲輪間の要所には空堀や堀切も設けられた複雑で巧妙な縄張りである。
中でも城の北側には広い蓮池・溜池などがあり、伊達氏を警戒して北方が堅固な縄張りである。
尚、本丸周囲を鉢巻石垣がめぐっているが、基本的には土の城である。

中村城には到着が夕方6時頃になってしまい大急ぎで廻るはめになってしまった。
東三の丸跡が駐車場になっており、そのすぐ傍に南二の丸へ入る大手一ノ門が残っている。この大手門は桝形虎口となっている。
本丸には、相馬神社が建ち、天守台跡もある。本丸虎口は大手口と搦手口の2箇所あるが、どちらも堀の上に橋が架かっているが、その光景は手前から見ても、 横から見上げてもなかなか絵になる。
また、土塁や水堀・空堀等々多くの遺構が往時を偲ばせてくれるし、全体を通しても往時の面影がよく残る城址である。
本来なら、ゆっくりと散策しながら見て廻りたい城跡であり、また再登城したいものだ。
(2007/08/14登城して)

ギャラリー

相馬中村城縄張略図(現地案内板より)  ~画面をクリックにて拡大~
相馬中村城は比高差10mほどの台地上に本丸を置き、それを取り囲むように東二の丸・西二の丸・南二の丸・北二の丸を置き、更にその外側に北三の丸・岡田塁・東三の丸・西三の丸などの曲輪群を配置した輪郭式平山城である。
城郭の規模は、東西600m×南北650mで、多くの曲輪の周囲には水堀(天然の水沼等も含む)が、また曲輪間の要所には空堀や堀切も設けられた複雑で巧妙な縄張りである。
中でも城の北側には広い蓮池・溜池などがあり、伊達氏を警戒して北方が堅固な縄張りである。

相馬中村城縄張図

外堀(東三の丸の堀)
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大手一の門(現存)
慶安元年(1649)の建築、翌年完成
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大手二の門跡
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大手桝形
城内から大手桝形を撮ったもので、左奥が現存する大手一の門で、かつては手前の土塁のところに大手ニの門があった。
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東二の丸と東三の丸間の水堀
大手門から入城し北の方へ進むと中の門手前右手に東二の丸と東三の丸間の水堀が見える。この水堀も天然の水沼を利用・改造したものであろう。
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中の門跡
中の門跡の奥は土塁に囲まれた非常に広い南二の丸跡である。
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本丸と東二の丸間の堀切に架かる本丸大手の橋
本丸虎口は大手口と搦手口の2箇所あるが、どちらも堀切の上に橋が架かっているが、その光景は手前から見ても、 横から見上げてもなかなか絵になる。
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【本丸跡】
本丸の規模は東西100m、南北110mほどで、現在は相馬神社の境内になっている。また、南西隅には天守跡もあり説明板が設置されているが明瞭な跡はない。
相馬神社
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天守跡
慶長16年(1611)の築城では、本丸の西南隅に天守が建てられた。しかし、寛文10年(1670)に落雷のため焼失してしまい、その後、再建されることはなかった。
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本丸西の搦手虎口桝形
本丸西の搦手虎口は石垣造りになっているが、往時のものではないだろうネ。しかし、なかなかかっこよくて絵になる。写真中央の橋は、本丸西側の堀に架かる木橋である。
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本丸西側の堀に架かる搦手口への橋
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相馬中村神社(別名・妙見中村神社)
西二の丸の西側には相馬中村神社が鎮座している。相馬氏の居城には、氏神として妙見が祭られ、居城を移すたびに妙見も移された。太田村別所の館、小高城、中村城でそれぞれ祭られ、現在の太田神社、小高神社、相馬中村神社となった。この三社は相馬三妙見と呼ばれている。
現在の本社建築本殿・幣殿・拝殿は、寛永20年(1643)、18代藩主相馬義胤によって建立され、相馬地方の代表的な古建築として「国の重要文化財」に指定されている。
尚、相馬野馬追の出陣式はここで行われる。(相馬市公式ホームページ、相馬観光ガイド他より)
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本丸南面の鉢巻石垣
本丸周囲は鉢巻石垣がめぐっている。石垣の高さは2~3mほどである。夏で日が永いとはいえもう午後6時半近くになってしまい、薄暗くてこんなぼやけた写真しか撮れませんでした(/。ヽ)。
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