武蔵 赤塚城(板橋区)

本丸跡隅に立つ城址碑と説明板

武蔵千葉氏の基盤となった城も後北条氏の滅亡とともに廃城

所在地

東京都板橋区赤塚5丁目、赤塚公園
【アクセス】
都営三田線「西高島平駅」の南8~900m

形状

平山城(標高27m、比高15m)

現状・遺構等

【現状】赤塚公園、乗連寺、市街地
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、水堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2006/08/20

歴史等

下総国の守護・千葉氏は古河公方足利成氏と関東管領上杉家が争った「享徳の大乱」に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げた。康生2年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は上杉家の助けをうけ、市川城(国府台城)を逃れて赤塚城と石浜城(現荒川区・台東区)へ入城した。
その後、兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築いた。
そして、後北条氏が武蔵国へ進出してくると、これに従った。自胤以降は盛胤、良胤、惟胤と続いたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏が滅亡したときに運命をともにし、赤塚城も廃城になったと伝えられている。
『参考:現地説明板』

現況・登城記・感想等

赤塚城跡は荒川の河岸段丘上にあり、最頂部が本丸跡である。丘の下の区立郷土資料館脇には水堀跡と伝えられている池が釣堀になっていて多くの人が釣りを楽しんでいた。
丘の上の広場が本丸跡で、城址碑と説明板が立っている。
説明板によると、その隣(南)にある梅林の部分がニノ郭(二の丸)でその西側が三ノ郭(三の丸)とする見解もあるらしいが、正確なことは分かっていないとのことである。
尚、梅林のかなり南にある東京大仏の前に二の丸跡の石碑が建っていたが梅林からこの辺りまでが二の丸だったということであろうか。
また、本丸跡の西側には空堀跡らしき形状が観られ、また西側と南側には土塁跡のようなものが観られたが果たしてどうなんだろう。
まあ、東京23区内の城址としては、遺構も雰囲気もよく残っている方であろう。
(2006/08/20登城して)


【余計?な話】
今回の登城では、日本の道路行政がいかに人をないがしろにしているか痛切に感じた。 都営地下鉄三田線「西高島平駅」から徒歩5分乃至10分ほどとなっていたので地図をたよりに歩いて行ったら、何と新大宮バイパスが、 まさに現代版の堀切というか土塁である。渡るところが無い。300mほどバイパスに沿って歩いた所でやっと渡ることが出来た。結局、 城址までは30分以上掛ってしまった。
道路計画はもう少し歩く人のことも考えてくれないものであろうか。住んでいる人も大変だろうしねえ。

ギャラリー

中世城郭には珍しい水堀跡
奥に見える丘の上に赤塚城本丸跡がある。水堀跡は釣堀になっていて多くの人が釣りを楽しんでいた。
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本丸跡への階段
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本丸跡
本丸跡は非常に広い広場になっており、東端に「赤塚城本丸跡」の石碑が立ち、説明板が設置されている。
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本丸跡に立つ城址碑と説明板
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本丸南側の土塁跡
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本丸西側の空堀横の土塁
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本丸西側の空堀
浅く広いような気もするが両側の城壁はそれなりに雰囲気がある。
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本丸西側の曲輪辺りに架かる木橋
城の遺構とは関係ないと思うが、このあたりは湿っぽく沼地だったのではと思われ、当時は橋が架かっていても不思議ではないかも。
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二の郭(二の丸)跡
本丸跡の説明板によると、本丸南側のこの梅林一帯が二の郭(二の丸)とする見解もあるらしいが、正確なことは分かっていないとのことである。一方、ここからはかなり南にある乗連寺の東京大仏前にも二の丸跡の石碑が建っている。
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乗連寺の東京大仏前に立つ「赤塚城二の丸跡」の石碑
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諏訪神社
城址の北にあり、千葉自胤が赤塚城の鬼門除けのために、長禄年間(1457~60)に信濃国の諏訪大社を勧請し武運長久を祈願した。
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