武蔵 渋谷城(渋谷区)

城跡とされる金王八幡宮

平治物語で有名な金王丸ゆかりの城

別名

金王丸城(こんのうまるじょう)

所在地

東京都渋谷区渋谷3丁目5番12号(金王八幡宮)

形状

丘城

現状・遺構等

現状:金王八幡宮、東福寺、市街地
遺構等:砦の石?、金王桜、説明板&御鎮座880年記念事業の石碑

満足度

-----

訪城日

2007/01/28

歴史等

金王八幡宮は、第73代堀河天皇の寛治6年(1092) 正月15日渋谷家の祖河崎土佐守基家により創祀せられてより880年を迎えたり 桓武天皇の曾孫高望王の平忠常追討に大功ありて軍用の八族を賜り 内二族を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭す 武基の子武綱は嫡子重家と共に八幡太郎義家の軍に従い奥州金沢の柵の攻略に大功を建て 名を河崎土佐守基家と賜り 武蔵谷盛の庄を与えらる 月旗の加護なりと 義家と共に月旗を奉じて八幡宮を勧請すと言う 重家の時 堀河院より渋谷の姓を賜う 重家の子金王丸は剛勇無双の武将にして源義朝頼朝と親交あり 鎌倉幕府創立の蔭の功労者なりき頼朝 金王丸ノ忠誠を偲い 文治5年 (1189)鎌倉金亀ケ谷地主の桜を移し植えて金王桜と名付け 建久2年後社殿を造営奉納せらる 渋谷氏は谷盛七郷(渋谷・代々木・赤坂・ 飯倉・麻生・一ツ木・今井等)を領有し当八幡宮を中心に館を構えて居城とせり 
『以上、現地「御鎮座880年記念事業の碑」より』
このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居城跡で、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、 居城を囲んでいるうえに、かつては数ヶ所に涌泉があるという好条件を備えていた。しかし、その城は大永四年(1524)、後北条氏 (北条氏綱)と上杉氏(扇谷上杉朝興)の合戦のとき、後北条氏の一軍に焼き払われ廃城になったといわれる。
『現地説明板より』

【金王丸(こんのうまる)】
平治の乱(1159)で、源義朝が平清盛と戦って敗れ、 鎌倉へ落ち延びる途中、尾張国内海に来たとき、従う者は長男の義平以下8騎になっていた。 内海の荘園領主長田忠致は源氏に恩顧のある者であったが、義朝を討ち取って朝廷から恩賞に預かろうと企てた。 長田忠致は義朝を風呂に入れて殺害しようとするが、側近の金王丸が太刀を帯びたまま主人の背中を流しているため手が下せなかった。しかし、 金王丸が湯帷子を取りに湯殿から出たわずかの隙を襲って、義朝を殺害した。金王丸は獅子奮迅の働きで義平を助け脱出を果たす。 そして主人義朝の死を愛妾常盤御前に報告した後、義朝の菩提を弔うために出家した。
土佐坊昌俊と名乗った金王丸は、その後、文治元年(1185)頼朝の命にて、京都六条室町邸にいる義経を襲った。 しかし逆に捕らわれ死罪に処せられた。
『相鉄瓦版125号第22回かしわ台の巻よりhttp://www.sotetsu-group.co.jp/kawaraban/125/125jidai.htm

現況・登城記・感想等

渋谷城は「平治物語」で有名な金王丸(こんのうまる)ゆかりの城とのことである。
渋谷城址の金王八幡宮は渋谷駅から5分くらいの所の高台にあり、神社はもう一段高い所にある。遺構は何も残っていないに等しいが、 渋谷のど真ん中にこんな静寂の地があるだけで良しとしなければねえ。しかも、砦の石が1個(本当に本物かなあ?) だけではあるが残っているんだから。
(2007/01/28訪ねて)

ギャラリー

渋谷城「砦の石」
唯一の遺構? と言えるかも。渋谷のど真ん中だしこれだけでもめっけもの(笑)

金王桜
この桜は「金王神社社記」によると、 源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、 鎌倉亀ケ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされる。
長州緋桜という種類の桜で、花弁は5~7枚であるが、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重の花が混じって咲く珍しい桜である。 一名を憂忘桜(うさわすれさくら)とも呼称されていたようである。
また、江戸時代の地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつで、代々実生により植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられる。

渋谷川
渋谷駅の東側を流れている。往時の外堀の役目をしていたと考えられる。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント