相模 衣笠城(横須賀市)

本丸跡と本丸跡脇に立つ城址標柱

相模の名族三浦氏本拠の地、衣笠合戦の地

所在地

神奈川県横須賀市衣笠
大善寺の裏山が詰城で大善寺辺りから下が平時の居館跡
大善寺:横須賀市衣笠町29−1、電話046-851-1196

形状

山城

現状・遺構等

【現状】山林
【遺構等】曲輪、土塁、堀切、井戸、石碑、標柱、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/09/24

歴史等

源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡(三浦)平太夫為通が戦功によって三浦の地を与えられた。
衣笠城は、為通により三浦の中心地である要害堅固なこの地に、大谷戸川と深山川を自然の堀として、康平年間(1058~1064)に築城されたといわれ、以後、為継・義継・義明の4代にわたり三浦氏の本拠として、三浦半島経営の中心地であった。南には佐原城と大矢部城、北には小矢部城があり、これらを総称して衣笠城とも言ったらしい。
治承4年(1180)8月三浦氏は、源頼朝の旗揚げに呼応して伊豆に向かった。頼朝は石橋山合戦で敗れ、真鶴岬から海路、安房へと逃れた。三浦軍はこの合戦には間に合わずこの城に引き返すこととなった。そしてこの城に平家側(畠山・河越・江戸氏らの秩父平氏一党)の大軍を迎えての攻防戦(衣笠合戦)となり落城した。
この時89歳の城主三浦大介義明は、自分一人がここに残り、子の三浦義澄、孫の和田小太郎義盛等の三浦党一族他のものは生きて、源頼朝と行動を共にするよう命じた。
義澄らは脱出に成功し、久里浜から海路を安房へと向かい頼朝と合流した。態勢を整えた頼朝は1ヶ月後には念願の鎌倉入りを果たした。
鎌倉幕府成立後、三浦一族は、幕府創業の功臣として幕府内に重きをおくこととなり、この城はまた三浦氏の本拠となるが、鎌倉時代の宝治元年(1247)宝治合戦(執権北条氏が御家人三浦氏の一族を滅ぼした事件)で三浦党が没落すると廃城となった。
『「現地説明板」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

大善寺の裏山が衣笠城址(詰城)で、大善寺あたりから下が平時の居館だったらしい。
大善寺のすぐ下に駐車場があり、そこまで住宅地の中の細くて急な坂道(「馬返しの坂」というらしい)を車で登って行くことが出来るが生半可な斜度ではない。歩いて登ったら15~20分は掛かるだろう。よくこんな所に住むことが出来るものだと、この辺りの住民の方に感服だw(*゚o゚*)w
駐車場からは、大善寺への石段とは別にその横に衣笠城址への石段があり、その登り口に、「衣笠城址への案内板」と 「見落としても不思議でない随分小さな、衣笠城本丸遺址と彫られた石碑」が建っている。
そこをを登った所に説明板が建っており、そこから更に階段がある。そして、その階段を登り切った所にも城址碑が建ち、そのすぐ横が大善寺である。
そこからは緩やかな階段を登って行く。坂道を登り切った平場が本丸跡で奥(北)の方には「衣笠城跡案内板」と「三浦大介義明公八百年記念碑」が建ち、北東隅には祠(御霊神社)が祀られている。また、一部土塁跡らしきものも確認できる。
本丸の少し奥(北西)には物見台跡があり、その脇にも石碑(城址碑)が建っている。やたらと、石碑が多い城址だ。
物見台の奥(東側)には結構大規模な堀切が残っている。堀切の向こう側は一段高くなっており、その上には祠(稲荷社)が祀られ、その横には、この地で最期を遂げた三浦義明の辞世の句碑が建てられている。
そこから奥へ尾根伝いに衣笠山公園への遊歩道(岩道で道の横はかなりの急崖)になっているが、時間の関係もありここで引き返した。
(2007/09/24登城して)

ギャラリー

衣笠城址周辺地図
大善寺の裏山が衣笠城址(詰城)で、大善寺あたりから下が平時の居館だったらしい。南には佐原城と大矢部城、 北には小矢部城(衣笠山公園辺り)があり、これらを総称して衣笠城とも言ったらしい。
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登城道(大善寺駐車場から撮影)
大善寺への石段とは別にその横に衣笠城址への石段があり、その登り口に「衣笠城址への案内板」と 「見落としても不思議でない随分小さな衣笠城本丸遺址と彫られた石碑」が建っている。
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城址への石段脇の「小さな石碑」と「案内板」
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石段を登り切った所に設置された説明板と更に階段が・・・
石段を登り切
った所に説明板が建っている。そこから更に階段があり、そこを登り切った所にも城址碑が建ち、そのすぐ横が大善寺である。
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大善寺
上写真の階段を登り切った所に大善寺があるが、この辺りから下が平時の居館跡であったと思われる。
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本丸跡
大善寺脇からは緩やかな坂道(階段)を登って行く。坂道を登り切った平場が本丸跡で本丸跡へは、駐車場から1~2分ほどで着く。それほど広くはなく真っ平ではなく削平が甘い。奥(北)の方には「衣笠城跡案内板」と「三浦大介義明公800年記念碑」が建つ。記念碑は大正8年(1919)に建てられたそうだ。
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御霊神社(祠)
本丸跡北東隅には祠(御霊神社)が祀られている。
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土塁跡
本丸東側には土塁が残り、その奥は急崖になっている。9月24日の登城で彼岸花が。
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物見岩
本丸奥(北西部)頂部には物見岩と呼ばれる大岩があり、西側は急峻な谷になっているが、木々に覆われて眺望は良くない。
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遺物発掘処の碑
物見岩下からは、大正8年に経筒他が発見されたとのことで遺物発掘処の碑が。
 
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物見岩脇の城址碑
物見岩の脇にも城址碑が建てられている。やたらと城址碑が多い城跡だ。
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堀切
物見台の奥(東側)には結構大規模な堀切が残っている。堀切の向こう側は一段高い大岩が・・・
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大岩側から
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大岩上に建つ祠(稲荷社)と
大岩の上には祠が祀られている。横の句碑は、この地で最期を遂げた三浦義明の辞世の句碑である。尚、こちらの方が衣笠城頂部とされる物見台よりも一段高いような?
ここから衣笠山公園にかけても衣笠城の一部(小矢部城)であったようだ。
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稲荷社(祠)脇から堀切越しに物見台を
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眺望
稲荷社(祠)の下から奥へ、尾根伝いに衣笠山公園への遊歩道(岩道で道の横は結構急崖)になっているが、ここからの眺望はなかなか良い。
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