相模 比企氏館(鎌倉市)

妙本寺山門と右手前に石碑

鎌倉時代初期の有力御家人・比企能員の館

所在地

神奈川県鎌倉市大町1丁目15-1(妙本寺)
妙本寺:電話0467-22-0777

形状

現状・遺構等

現状:妙本寺
遺構等:説明付石碑

満足度

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歴史等

比企能員(よしかず)は、源頼朝の乳母比企尼の甥で、後に養子となった。比企氏館は、能員が養母比企尼と共に居住した館である。
比企尼は、平治の乱後の永暦元年(1160)頼朝が伊豆蛭ケ小島へ流された後も、夫掃部充遠宗と共に下向し、長年にわたって頼朝を保護した。 このため、寿永元年(1182)頼朝の長男・頼家が誕生した時、能員の妻が乳母に選ばれた。
また、その後、能員の娘・若狭局が頼家の室となって長子(一幡)を生んだので、能員は外祖父として権勢をふるい、 子の時員らも頼家の側近として重用された。このため、次第に北条時政らと対立を深めていった。
建仁3年(1203)8月末、2代将軍・頼家が危篤になると、北条時政は関東28ヶ国の地頭職と総守護職を長子・一幡に、 関西38ヶ国の地頭職を頼家の弟・千幡(後の実朝)にと、家督を分与することを定めた。
家督を2分することは国の乱れのもととして、この決定に不満を持った能員は、病床の将軍頼家に時政の専横を訴え、時政追討の許諾を得た。
しかし、この蜜事は障子を隔てて聞いていた北条政子から時政に伝えられ、逆に仏事にかこつけて呼び出された時政の名越亭で謀殺された。 小御所(一幡館)に立て籠もった比企一族は、鎌倉の軍兵に攻められ、一幡ともども滅亡した。
『「中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館Ⅱ編(さきたま出版会刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

妙本寺域が館跡である。遺構は全く残らず、入口の山門の横に説明付きの「比企能員邸址」の石碑が立っているだけである。門をくぐり、 正面の谷あいの参道をまっすぐ進むと本堂に当たるが、切り立った両側の高台が館跡であることを偲ばせてくれる?
尚、駐車スペースがあるとの情報を得て、今回は車で行ったが、無いに等しい。ここに限らず鎌倉の史跡は、絶対徒歩に限ると、改めて思った。
(2008/12/23訪れて)

ギャラリー

山門横に立つ石碑

妙本寺参道
門をくぐり、正面の谷あいの参道をまっすぐ進むと本堂に当たるが、 切り立った両側の高台が館跡であることを偲ばせてくれる?

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