主郭跡に建つ模擬冠木門と天守風?の展望台
北条早雲の武蔵国進出の第一歩の城
所在地
神奈川県川崎市多摩区枡形6(生田緑地内)
生田緑地の東西両側に有料駐車場がある
形状
山城(標高84m)
現状・遺構等
現状:生田緑地(公園)
遺構等:郭、模擬城門(冠木門)、模擬天守?(展望台)、模擬板塀、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2009/11/15
歴史等
枡形山の存在が、地域支配の拠点として初見されるのは、平安末期の秩父平氏の開拓に遡る。多摩川右岸に形成された稲毛荘は、
秩父重弘の子小山田有重、さらにその子重成によって経営された。
重成は、稲毛氏を称して、鎌倉開府以降は有力御家人として、稲毛荘在地代官の職(しき)を一手に収め、枡形山に砦を築いた。
鎌倉時代、多摩川沿いの丘陵地には、この枡形山城をはじめ、小沢城・作延城・亀井城・有馬城・井田城・加瀬城など山城がいくつも連なり、
鎌倉幕府の北の守りを固めていた。
重成は、源頼朝の信頼を得て、鎌倉幕府で勢力を持ったが、畠山重忠や三浦一族と同様に、執権北条氏の専制確立への血祭りとなり、元久2年
(1205)、北条氏の陰謀にはまり殺された。重成の没後、枡形山城は幾度となく争奪が繰り返され、
室町時代には重成の血脈とみられる稲ノ目氏が枡形山城主となっていたが詳しいことはわかっていない。
再び枡形山城が注目されるのは、虎視眈々と武蔵進出の機会を狙っていた伊勢新九郎(北条早雲)が、太田道灌なきあとの永正元年(1504)
9月、扇谷上杉朝良と結んで、山内上杉顕定と合戦する朝良の援軍として今川氏親と共に枡形山に陣を張った時である。
この「立川原合戦」は、勝負が付かないまま終わったが、早雲の一大転機となった。
その後、後北条氏の治下においては、横山重弘が城代であったと伝えるが、天正18年(1590)後北条氏滅亡と共に廃城となった。
『歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
枡形山城は、公園として整備され、山頂部の主郭は広場となり、天守閣風というには微妙なの展望台が建っている。
展望台からの眺望はよく、川崎市内は勿論、東京方面まで望め、高層ビル群がよく見える。
広場の隅の樹木の陰に説明付きの立派な城址碑がたち、その横には郷土の生んだ文学者・伊藤葦天の句「馬場あとも やかたあとも 秋の風」
が刻まれている。
城は断崖絶壁の天然の要害を利用したものだろうが、一部加工跡もあるような感じだ。それ以外には、遺構は残っていないようだが、
雑木林の中を登る道など中世の城の雰囲気はある。
しかし今では、この枡形山の主役は山麓に有る「民家園」や「岡本太郎美術館」、「プラネタリウム」、「科学館」等々であろう。今日も、
多くの家族連れがやってきていて、まさに市民の憩いの場になっている。
(2009/11/15登城して)
ギャラリー
登城道
山麓から広い道が整備されているが、切岸?といい、雑木林といい中世山城の風情はある。
主郭跡
山頂の主郭跡(広場)へは5分ほどで着く。主郭跡入口には、TOP写真のように模擬冠木門と板塀が建ち、
門をくぐると天守風というには微妙な展望台が建っている。郭には2本の大きな桜の木が立っていたが、開花の頃は見事だろう。
城址碑と説明板
郭の隅の樹木に隠れて立派な城址碑(説明付き)と簡単な説明板がたっている。
展望台から東京の高層ビル群を眺める
展望台からの眺望はよく、川崎市内は勿論、東京方面まで望め、高層ビル群がよく見える。反対(西)
側には富士山も見えた。
【山麓の公園】
今では、この枡形山の主役は山麓に有る「民家園」や「岡本太郎美術館」、「プラネタリウム」、「科学館」
等々であろう。今日も、多くの家族連れがやってきていて、まさに市民の憩いの場になっている。
周りの木々の緑と紅葉が見事で廻っていても気持ちよく森林浴ができた(^^)。
日本民家園
川崎市立日本民家園は日本を代表する古民家の野外博物館で、
江戸時代の民家など25の文化財建造物が移築展示され結構楽しめる。写真は白川郷から移築された民家である。
岡本太郎美術館
実際の美術館は、この写真の左側にある。もっと奇抜な建物かと思ったら、意外とまともな建物でガッカリ?
青少年科学館
青少年科学館の前のどうだんツツジなどの紅葉が見事だった。
公園の緑
輝く太陽の下で公園の木々の緑が映えて綺麗で歩いていても気持ちよかった。これぞ森林浴だ!