武蔵 高坂館(東松山市)

館址西側に残る土塁

名門扇谷上杉一族の出と云われる加賀爪氏の陣屋

所在地

埼玉県東松山市高坂大字高済寺834(高済寺)

形状

丘城(崖端城)

現状・遺構等

現状:高済寺、住宅地
遺構等:土塁、櫓台、堀、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/08/04

歴史等

もとは、江戸氏の流れをくむ高坂刑部の館があったと伝えられるが詳らかではない。
名門扇谷上杉一族の出といわれる加賀爪氏は、政尚の代に徳川家康に仕え、長久手の戦、小田原征伐に戦功があり、文禄元年(1592) 武蔵比企と相模高座両郡において3千石を知行して高坂館跡地に陣屋を構えた。
政尚の子忠澄は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦、元和元年(1615)の大阪の陣に出陣し、大坂の陣では、大坂城落城の時に、 豊臣秀頼の捜索を命じられた。そして、慶長5年(1600)に目付、寛永2年(1625)武蔵・下総両国内で4千5百石を領した。さらに、 寛永8年(1631)に江戸町奉行に就任して9千5百石を領し、寛永17年(1640)には大目付となった。
次の直澄は旗本中の乱暴者として通っていたようであるが、書院番隊長、寺社奉行も勤め、寛文8年(1668)1万3千石を領有した。
直澄の子の直清の時に、成瀬氏との間で領地問題を起こし、天和元年(1681)に領地没収されて廃藩となった。
『「現地説明板」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」他より』

現況・登城記・感想等

高済寺の西側に土塁が残り、土塁の外(西)側には堀も残っている。
土塁の高さは郭内からでも3mはあろうかと思われ、また幅もかなりのもので、見応えがある。 土塁の北と南の端は古墳を利用した櫓台だったようだが、今では、北の櫓台跡には「加賀爪氏累代の墓」が、南の櫓台跡には「城山稲荷の祠」 が建てられている。
土塁の外(西)側に残る堀もはっきりと残っており、土塁からの高さは6m以上、堀幅は7~8m程あるのではと思われる。
東側の河岸の方へ降りて行くと、ここにも土塁跡と堀跡(尤も、川を利用したもののようだが)らしいのが残っていた。
これら立派な土塁と堀を見ると、高坂館は陣屋とは云いながらも、なかなかの防御機能を持っていたようだ。
(2007/08/04登城して)

ギャラリー

㊧高済寺、㊨門の横に建つ「加賀爪氏累代墓」の石碑と標柱
 

土塁(城山稲荷手前から撮影)
土塁の高さは郭内からでも3mはあろうかと思われ、また幅もかなりのもので、見応えがある。一番奥(北) の櫓台跡は「加賀爪氏累代の墓」が。

㊧土塁南側櫓台跡に建つ城山稲荷、㊨稲荷から見る土塁
 

土塁北側櫓台上の加賀爪氏累代の墓(奥上)

館西側の土塁と堀(加賀爪氏墓の所から撮影)

土塁西(外)側の堀
土塁の外(西)側に残る堀もはっきりと残っており、土塁からの高さは6m以上、 堀幅は8m以上以上あるのではと思われる。

東側河岸に残る土塁(手前に写っている看板は城址とは関係ない)

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