武蔵 松山城(吉見町)

本曲輪北東部の空堀

上杉氏と後北条氏が奪い合った関東の要衝

別名

白米城

所在地

埼玉県比企郡吉見町南吉見(吉見百穴の南)

形状

平山城(比高:40m程)

現状・遺構等

現状:山林(国指定史跡)
遺構等:曲輪、土塁、空堀、竪堀、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2002/09/27
2008/06/24

歴史等

城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえいわれるが、山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背景とした15世紀後半という考え方が有力である。但し、この頃の文献資料は極めて乏しく詳細は不明である。武蔵松山城が歴史に登場するのは、公方足利氏、山内・扇谷両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる後北条氏が興隆する時期と言える。
天文年間(1532~55)以降の文献資料は豊富で、その中には、山内上杉氏、扇谷上杉氏、後北条氏、甲斐の武田氏、越後上杉氏の名も見られる。
松山城は関東の覇権をめぐり競い合った後北条氏と上杉氏との勢力接点上に位置していた。そのため、両軍が松山城をめぐって激しい攻防戦を繰り返し、記録に現れただけでも、松山城は7度も落城の憂き目をみている。
有名なのは、天文年間(1532~55)から永禄年間(1558~69)にかけての上杉氏、武田氏、後北条氏の松山城を巡っての攻防である。
戦国時代の城主は、山内上杉氏の重臣上田氏であった。しかし、天文15年(1546)の川越夜戦で山内上杉氏が大敗を喫したのち、後北条氏に寝返ってしまい、以後、松山城は後北条氏の城として機能し、城の守りは、引き続き上田氏に任されている。
永禄4年(1561)、上杉謙信は9万ともいわれる大軍を率い松山城に押し寄せ城を落とした。
謙信が越後へ帰ったのちの永禄 5年(1562)、後北条勢は3万の兵をもって攻撃をかけたが城は落とせなかった。そこで後北条氏は当時同盟関係にあった武田氏の援軍を得て5万数千の連合軍を結成し、再度、松山城を厳重に包囲したが、一向に落ちる気配のない松山城を見た武田信玄が、甲斐より金堀衆を呼び、地下に穴を掘って戦意を喪失させて、降伏に持ち込んだ。
尤も、この地下坑道作戦は、城内の貯水池にぶつかって水が噴出したり、城方がそれと気づいて地下から逆襲に出た為失敗に終わり、結局、城を完全に包囲して水源を断つという常套手段が功を奏したという話もある。
また、新田次郎の「武田信玄」では、北条勢とともに松山城を囲んでいた武田信廉が吉見百穴を見て、城に穴を掘って攻めることを思いついたとなっている。
その後は、北条氏 の手に帰していたが、天正18年(1590)の 豊臣秀吉 による小田原征伐の際に、前田利家、上杉景勝らの大軍勢に攻撃され落城した。
同年に 徳川家康 が関東へ移封されると、一門の松平家広 が城主となるが、関ヶ原の合戦の翌慶長6年(1601)に城主松平忠頼(家広の弟) が、遠江浜松へ転封されたのを最後に廃城された。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「吉見百穴資料館印刷物」参照』

現況・登城記・感想等

武田信玄・上杉謙信・北条氏康の戦国時代の三名傑全てが関係し、多くの小説に頻繁に出てくる城で、非常に大きな興味を持って登城した。特に、新田次郎の「武田信玄」の中の、吉見百穴を見て松山城に穴を掘って攻める箇所は印象深い。
城山はすぐに分かったが登り口がなかなか見つからなかった。すごく深く切れ込んだ堀切らしいのがあったが、そこからは登れそうにない。やっと通りがかりの人に聞いて、三の丸側から登城した。土塁や空堀などの保存は余計な手が加えられず、実に見応えがある。
本丸からの下城は別の道を降りた。こちらの方が一般的な登城道らしい。また、機会があったら、縄張図を見ながら歩きたい城である。
(2002/09/27登城して)

近くの「百穴温泉」に行ったが、風呂はともかく、施設のあまりの古さと汚さに閉口した。(投資は当然のこと、掃除もろくにしていないんじゃないかと思われる。)
(2006年2月)

ほぼ6年ぶりに登城した。今回は、遠来の友・Tさんと地元埼玉のNさんとの登城である。
相変わらず、素晴らしい空堀だ(変わる訳がないから当然だが)。
この城址の見所は、何と言っても、各曲輪間の至る所に掘られた、大規模な空堀であろう。その折りがよく入った空堀は、何度見ても、いつまで見ていても飽きない。ついつい写真の撮りまくり!
(2008/06/24登城して)

ギャラリー

縄張図(吉見百穴資料館パンフレットより) ~クリックにて拡大画面に~
西から東に向かって、本曲輪・二ノ曲輪・春日曲輪・三ノ曲輪が一直線に並び、それらを取り囲みながら惣曲輪・兵糧曲輪をはじめ大小様々な腰曲輪が配されている。曲輪の周囲には大規模な空堀と切り落としがある。

全景
市野川手前(西側)から撮影。比高差約40mほどと、それほど高い山ではないが西側から南・東側にかけては切立った崖の要害の地である。左側に見える崖の辺りに岩室観音堂と切り通しがある。また、写真の左方向に有名な吉見百穴(ひゃくあな)がある。

㊧岩室観音堂、㊨切り通し(竪堀?)
㊧岩室観音のはじまりは弘仁年中(810~824)と言われているが、確かな記録は残っていない。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際の松山城攻防戦で石田三成の士卒によって焼失してしまい、現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661~73)に再建された懸け造り様式である。
㊨観音堂の奥に切通しがある。堀切或いは竪堀のようで、見るからに急坂であるが、案内図を見ると登って行けそうであったが、先日来の雨で、上のほうから水が流れ落ちてきていたので、登って行くのを断念した。

信玄の地下行動作戦の穴??
岩室観音堂の横の崖に、こんな穴が一杯あった。一瞬、「信玄の地下坑道作戦の穴?」なんて思った(期待した)けど、やっぱり違いますよねえ?これも吉見百穴と同様、古代の墓の跡ですかねえ?説明が全くないので・・・。

本曲輪と笹曲輪間の堀底道
左土塁上が本曲輪、右土塁上が笹曲輪

笹曲輪
㊧は笹曲輪上から撮影。三角形の形をした曲輪で、先の方がやや高くなっており、物見台的な櫓か何かあったのだろうか?㊨は、本曲輪上から撮影したもので、手前に上写真の堀底道が。

本曲輪
本曲輪は不整形であるが、ほぼ東西45m、南北45mの広がりを持っている。曲輪のやや北側(写真奥)に1mほどの高さの土塁が残っている。また、以前は、神社でも建っていたのであろう。コンクリート製の土台のみが・・・。

本曲輪物見櫓跡
本曲輪の東北部には、曲輪から突出した物見櫓が設けられていた。その跡に、高さ3mほどの立派な石碑が立っている。

本曲輪・二の曲輪間の空堀
この空堀は、大規模で実に見応えがある。この写真は本曲輪上から撮ったものである。また、表紙写真は堀底から撮ったもの。

本曲輪物見櫓下の空堀
左土塁上が本曲輪物見櫓跡で右上が二の曲輪。この折りのある空堀は、実に見事であるが、写真では、その素晴らしさを伝えられないのが残念だ。

本曲輪物見櫓跡
二の曲輪上から、空堀越しに撮ったものである。中央左上に石碑がたつ。

二の曲輪
二の曲輪は、本曲輪の物見櫓を囲むように「コ」の字形をしている。

二の曲輪・春日曲輪間の空堀と土橋(二の曲輪上から撮影)
この空堀には低い土橋状の遺構が認められ、通路として機能していたと思われるそうだ。右の土橋を登り切ったあたりから、左の方へとぐるっと曲がって奥の台地上に春日曲輪が見える。

二の曲輪・春日曲輪間の空堀
土橋の最底部から、上写真の反対側を撮ったもので、右土塁上が二の曲輪になる。草木が生茂って、写真では分かり辛いが、この空堀も大規模なものである。

春日曲輪
二の曲輪と三の曲輪の間に春日曲輪があるが、名前も含めて何故?二・三・四では駄目なの?

春日曲輪・三の曲輪間の空堀と土橋
この空堀も大規模である。また、この空堀にも低い部分に土橋が架かっている。

三の曲輪
この曲輪の西側(写真左)には、1mほどの高さの土塁が確認出来る。ここはかなりの薮化。

三の曲輪東側の空堀
この空堀は、規模が小さい。

吉見百穴(よしみひゃくあな)
新田次郎の「武田信玄」では、この吉見百穴を見て城に穴を掘って攻めたことになっている。ところで、私は、今回の登城でこれが「よしみひゃっけつ」でなくて「よしみひゃくあな」ということを初めて知ったのですが、皆様は御存知でした?

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント