武蔵 難波田城(富士見市)

水堀と馬出曲輪(曲輪2)へと通じる復元木橋

武蔵七党の一つ村山党の中心金子氏を祖とする難波田氏の城

別名

難波田氏館

所在地

埼玉県富士見市下南畑568-1(難波田城公園)

形状

平城

現状・遺構等

現状:難波田城公園、宅地、田園等
遺構等:曲輪、土塁、水堀、模擬城門、復元架橋、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/09/01

歴史等

難波田氏は金子高範を祖とする一族と言われている。また、難波田城(なんばたじょう)の築城年代ははっきりしないが、 戦国時代に館から城に拡張・整備されたと考えられる。
平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活躍していたが、その一つの村山党の中心に金子氏がいた。金子高範は、 鎌倉時代の初めに承久の乱に幕府側として参戦して討死した。その恩賞として幕府から、難波田(南畑)の地を与えられ、 系図上ではその子の小太郎から「難波田氏」を名乗るようになったとされる。
南北朝時代には、「羽祢蔵(羽根倉)合戦」で高麗経澄の軍勢と戦い敗れているが、戦国時代になると、難波田弾正善銀(正直) が扇谷上杉氏の重臣として活躍した。
しかし、天文15年(1546)の河越夜合戦で後北条氏と戦い、敗れて討死した。
その後、難波田氏一族は後北条氏の家臣となり、難波田の地は後北条氏の家臣上田氏が支配した。しかし、天正18年(1590) 後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたために、難波田城は廃城となった。
『「現地説明板」、「現地資料館内展示物」より』

現況・登城記・感想等

難波田城公園は、「城跡ゾーン」と古民家を移築した「古民家ゾーン」に分かれており、その間に「歴史資料館」がある「総合歴史公園」 となっている。そして、「城跡ゾーン」は水堀や土塁等々が非常に綺麗に整備され、市民にとっての素晴らしい憩いの場になっている。尤も、 私は最初はあまりにも綺麗に整備されすぎていて、ちょっと戸惑ったが・・・。しかし、 これはこれで地元市民や多くの方が歴史に親しむ上でいいことだろうとも思う。
現地のパンフレットによると、「発掘調査や古城図などの記録をもとに堀や土塁など、城の往時の様子を復元しました。」と書かれているが、 ちょっと整備されすぎていて、何処までが本来の遺構なのかよくわからないだけでなく、古城図と見較べてみても縄張が分かりにくかった。尤も、 これも後で分かったことであるが、公園案内図にある「曲輪2」とか「曲輪3」とかいうのは、「二の丸」とか「二郭」というのとは違い、 公園の区画を便宜上分けた名称らしく、これによって惑わされてしまったようである。
また、残念ながら本丸(本城)部分は、ほとんどが住宅地や畑地になってしまっているようだ。
尚、各曲輪や土塁・水堀等々には説明板があり、親切である。
(2007/09/01登城して)

ギャラリー

難波城公園案内図(現地説明板より)  ~クリックにて拡大画面に~
古城図と見較べてみても縄張が分かりにくかった。後で分かったことであるが、公園案内図にある「曲輪2」 とか「曲輪3」というのは、「二の丸」とか「二郭」というのとは違い、公園の区画を便宜上分けた名称らしい。

難波田城古図

模擬冠木門の「東門」(駐車場から城内への入口になる)

馬出曲輪(曲輪2)へと通じる復元木橋
平成8年の発掘調査で発見された木橋跡を復元したものである。

馬出曲輪(㊧本城側から、㊨曲輪3から撮影)
 

馬出曲輪から本丸(本城)へ
本城は、ほとんどが住宅地や畑地となり、模擬冠木門(本城門)と石碑が建っているだけである。
 

模擬大手門(棟門)

横矢のかかった土塁と水堀(大手門を入った曲輪4から撮影)
この横矢の掛かった堀と土塁の光景はなかなかのものだ。

曲輪3への喰い違い虎口

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