武蔵 伝源経基館(鴻巣市)

館東側の堀と土塁

清和源氏の始祖源経基の営所跡とされる

所在地

埼玉県鴻巣市大間、鴻巣高校グラウンドの南西に隣接
鴻巣高校:大間1020、電話048-541-0234

形状

現状・遺構等

現状:県指定史跡
遺構等:曲輪、土塁、堀、石碑、標柱

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/06/24

歴史等

源経基は10世紀前半に、武蔵国介として中央から赴任してきた。天慶2年(939)、経基が上司の武蔵国権守・ 興世王と足立郡に巡検に入るときに、郡司武蔵武芝と紛争が起き、興世王は周辺の財物や収穫物を没収した。
これを伝え聞いた平将門は、この紛争の調停者として武蔵国へ進出した。将門の武力を警戒した経基は、比企郡狭服山に籠ったが、 興世王は将門の調停に応じることになった。
しかし、武芝の手勢の一部が経基の営所を囲み、圧力をかけるという不測の事態が発生し、調停は失敗した。このとき経基は、将門・ 武芝軍が攻撃してきたと誤解し、営所を脱出、京都へ帰り、将門に謀反の企みありと調停に訴えた。
その後、国司と在地土着勢力との騒乱は小康状態を保つが、 新たに着任した正任の武蔵国守百済王貞連と権守興世王とのいさかいに平将門が関係し、やがて将門の国家(国司) への反逆は関東全域に広がっていく。
やがて、経基は、将門追討の副将軍となり、武略に長じるようになり、清和源氏の始祖にふさわしい武将となった。
経基の騒動の舞台となった「比企郡狭服山」、「営所」の位置については諸説があり、はっきりしないが、これを此処に比定する説があり、 名称が「伝源経基館跡」となっている。。
『中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館編(さきたま出版会刊)より』

現況・登城記・感想等

伝源経基館は、台地の緩斜面にあり、東西約95m、南北約85mのほぼ方形の館である。
曲輪の3方(東南北)は堀と土塁で囲まれている。
東辺の両隅は、堀と土塁に折りがあり、館の防御効果を高める形式になっている。北西隅の土塁は幅広で一段高く物見台風となっており、 この土塁上に「六孫王経基城址」その石碑がたっている。
西側は落差をもって、水田となっている低地に続いているが、この辺りは後世になって破壊されたのであろうか? 水田が往時は沼地であったとしてもあまりにも高低差が少なく、防御が弱いように感じるけど!?
登城前には失礼だが、全く期待していなかったのに、まさか全体がこれだけ良好に残っているとは・・・(嬉)。
でも、私の個人的勝手な感想ですが、「経基って、清和源氏の始祖とは言いながらも、平将門との確執を思うと、嫌な奴ですね!?」
(2008/06/24登城して)

ギャラリー

南側の堀と土塁
伝源経基館跡は鴻巣高校グラウンドの南西に隣接している。この館跡の南東隅に駐車スペース(写真手前左側) があり3~4台ほど置ける。右側の土塁が南東隅の土塁で、左側が南側堀跡で、奥の方の途中まで残っている。

南東隅
南側(上写真左側)から撮ったもの。左土塁は南東隅の土塁で、折れが入っているのが分かる。

南東隅土塁と標柱
正面の南東隅土塁奥が曲輪跡。

東側の堀と土塁
左側土塁上が曲輪。右側は鴻巣高校グラウンド。堀の中を散策して進むことが出来る。

北東隅
北東隅は南東隅よりも折れがよく入り、防御上の工夫が見られる。

曲輪北側の土塁
土塁の上から撮ったもの。写真奥が西側で、物見台風の高くて、幅広くい土塁になっている。

㊧北西隅の土塁、㊨石碑
北西隅の土塁は、幅広で、一段高く物見台風となっており、この土塁上に「六孫王経基城址」 その石碑がたっている。逆光で撮りにくかった。
 

曲輪跡
伝源経基館は、東西約95m、南北約85mのほぼ方形の館である。曲輪の3方(東南北) は堀と土塁で囲まれている。尚、土塁の高さや幅は、一定ではなく、所々高くて幅広い所がある。北西隅だけでなく、 いくつか櫓が建っていたのであろうか?

曲輪西側
西側は落差をもって、水田となっている低地に続いているが、この辺りは後世になって破壊されたのであろうか? 水田が往時は沼地であったとしてもあまりにも高低差が少なく、防御が弱いように感じるけど!?

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