諸説あり不祥、小田原征伐後本多忠勝により再落城、江戸期には陣屋が
別名
一宮陣屋(江戸時代)
所在地
千葉県長生郡一宮町一宮(城山公園)
一宮小学校(一宮町一宮3351、電話0475-42-2026)の裏山
形状
平山城、(江戸時代は陣屋)
現状・遺構等
現状:城山公園、一宮小学校
遺構等:水堀の一部、大手門・崇文門・振武館・土塀(模擬)、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/09/02
歴史等
一宮城は天然の地形を利用した標高約30mの台地上にある要害の山城。築城時期は南北朝時代から16世紀とされるが詳細は不明。通称
「城山」と呼ばれ、周辺には守護神として寺院や神社が配置され、城に関する地名(城之内、追手、院内、陣屋、櫓前など)も残っている。
一宮城については、永禄5年(1562)9月に一宮城主内藤久長が館山城主里見義頼、
万木城主土岐頼春、
大多喜城主正木盛賢らに攻められ落城、或いは同年7月に一宮城主糟谷大炊助が勝浦城主正木時忠・
時通親子に攻撃され数ヵ月後に落城、また永禄8年2月から6月頃に落城と、諸説あり史実は判然としない。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に落城した房総の48ケ城の中で一宮城も本多忠勝ら数万の軍勢に攻められ再び落城した。
文禄元年(1592)、本多忠勝の支配する大多喜領となった後、領主の変遷を経て明暦3年(1657)には脇坂淡路守安元、また文政9年
(1826)には加納遠江守久儔によって陣屋が作られたが、明治維新によって取り壊された。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
一宮小学校の後ろの標高30mほどのこんもりした山が一宮城址である。
残念ながら戦国期の遺構はほとんど残っていないようだ。
その山の裏(西側)へ廻ると、加納藩時代の陣屋大手門が建てられ、その横に説明板と城山公園の案内図が設置されている。門の50mほど(右)
南側には、唯一の遺構である池(水堀?)があるようだが、池の周りは雑草が伸び放題で全く見えなかった。
大手門をくぐり、登城すると振武館が再建されている。
振武館の裏へ廻ると、コンクリートで固められた城塁の上に土塀が復元?されている。
城跡の下はトンネルが通り、一宮小学校の校庭へと抜け出る。すると驚くなかれ、何とトンネルの出口(小学校側)に崇文門がくっついている。
ビックリした~!!
この門に限らず、大手門しかり、土塀等々、せっかく復元するなら、こんな安直なものでなく、発掘調査などに基づいた復興をしてほしいものだ。
(2008/09/02登城して)
【私事ですが】
一宮・加納藩といえば、私の故郷・四日市(八田藩)から移封した藩だ。四日市市はほとんどが天領で、北部は桑名藩だった。
その間に挟まれた私の実家のある阿倉川という狭い区域は、どういう訳か加納藩の飛地であったそうだ。
そういう訳で、今回、戦国期の遺構は勿論、陣屋遺構もほとんど残っていないことを承知で訪問したが、
見事にほとんど何も残っていませんでした(笑)。
ギャラリー
一宮城全景
地元では通称「城山」と呼ばれる、標高30mほどのこんもりした山だ。
残念ながら戦国期の遺構はほとんど残っていないようだ。
大手門
山の裏(西側)へ廻ると、加納藩時代の陣屋大手門が再建されている。
折角建てるのなら、コンクリート製でなく木造にして欲しいものだが、、、。
振武館
加納藩の武道所として、城の内に振武館があったので、再建したそうで、
町民の健康づくりや体力向上に利用されるとともに、和室もあり、「憩いの場」「学習の場」となっている。
土塀
振武館の裏へ廻ると、コンクリートで固められた城塁の上に土塀が復元?されている。見晴らしは良いけど、
この光景も何とも違和感があるなあ。
最後の藩主加納久宣公の墓
藩籍奉還後も県知事として、また教育、農政などの分野でも活躍した人らしい。
崇文門
城跡の下はトンネルが通り、一宮小学校の校庭へと抜け出る。すると驚くなかれ、何とトンネルの出口
(小学校側)に崇文門がくっついている。ビックリした~!! この門に限らず、大手門しかり、土塀等々、せっかく復元するなら、
こんな安直なものでなく、発掘調査などに基づいた復興をしてほしいものだ。せめて、それらしく・・・。