上総 万木城(いすみ市)

主郭部北端に建てられた模擬天守(展望台)

土岐氏の城、小田原征伐時に本多忠勝に攻められ落城

別名

万喜城

所在地

千葉県いすみ市万木字城山(万木城址公園)

形状

山城(標高約80m)

現状・遺構等

現状:万木城址公園
遺構等:曲輪、土塁、空堀、模擬天守風展望台、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/09/02

歴史等

万木城は、戦国時代末期には既に完備した城郭であったことは、永禄8年(1565)の行元寺文書の存在から傍証できる。
この城の立地は断層崖の急傾斜を三方に持った台地によっているが、 この丘陵の三方は夷隅川の曲流に囲まれていて外堀の役目を果たし守るには要害の地と言える。この城郭が比較的単純であるというのは、 土居の配置が単純で、ただ周囲の一部にめぐらされていたこと、空堀の築造がなかったと思われることなどであるが、 これは地盤の基底が硬い泥岩質で、急崖をめぐらしている崖端城ともいえる要害が然らしめたものであろう。
本城については不明な点が多く、万木土岐氏には三代説、五代説、九代説があり、いずれも確証がないため謎に包まれたままである。
土岐三代説:頼元-為頼-頼春
五代説:頼元-頼房-頼定-為頼-頼春
九代説:時政-光頼-頼金-頼為-頼元-頼房-頼定-為頼-頼春
一説では、土岐氏が応永年間(1394~1427)に摂津富山城から来て拠ったと言われる。
土岐氏は正木氏とともに里見氏に仕えて、天文7年(1538)の第一次国府台合戦、永禄7年(1564)の時も、第二次国府台合戦の時も、 里見氏に従って出陣したが、第二次の時は、土岐氏は密かに後北条氏に通じて、全く戦わなかったと言われている。このため里見軍が敗れている。
戦国時代の末期になると、西方8kmの大多喜城正木氏、東北9kmの一宮城正木氏、 西北13kmの庁南城武田氏らに狙われて、たびたび攻撃を受けたが、その都度敵を撃退している。
しかし、天正18年(1590)には、秀吉の命を受けた家康の部将本多忠勝に攻められ、さすがの万木城も落城した。
『「現地説明板」、「臨時増刊歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』

現況・登城記・感想等

万木城址は、夷隅鉄道国吉駅の北東2kmの丘陵にある。車では、夷隅庁舎を目指し、その北に「万木城址公園」の案内板が建ち、 また山上には模擬櫓が建っているので迷うことはない。
登城前は、「模擬天守風の怪しげな展望台が建つ城址だし、遺構等もかなり破壊されているだろう」ということで、あまり期待はしていなかった。
ところが、今回は全てを廻ることは出来なかったが、多く残る曲輪跡や崖を垂直に切った城壁、急崖の地形等々見どころ十分な城址だった。
北端の浅間台の切岸がある大手口から模擬櫓のある主郭部下へは車で登ることができる。途中、両側に多くの段曲輪が確認できる。
主郭部の北端に、例の模擬天守風の展望台が建っている。その展望台の姿形の是非はともかく、展望台上からの眺望は素晴らしい。
主郭部の南端には一段高く、東西に細長い曲輪(倉の台)があり、その北西隅には櫓台跡らしき高みがある。
主郭部から倉の台横(東側)を南へと降りて行くと、まさにそこは戦国期の城郭を思わせる光景である。 垂直に切立った城壁や天然ののもであろうが実に深い谷が現れる。
そこからは、東と南方面へと尾根伝いに曲輪が連続しているようだ。また、ここからが城壁や堀切、竪堀、空堀等々、 この城址の最大の見どころのようであった。しかし、道こそ綺麗に整備されてはいるものの、道の両側には藪が迫り、それと同時に「マムシ注意」 の看板を見てしまった。
大抵の人は同様だと思うが、ご多分に漏れず、私もこの種の看板が嫌いだ。「時間もあまりないことだし・・・。」「それほど遠い所でもないし、 冬に草が枯れたら、また来れる」等々と自分に言い訳をして引き返してしまった。
この城址は、どうやら見どころ満載のようだ。冬になったら、再チャレンジをしよう!!
(2008/09/02登城して)

ギャラリー

浅間台の切岸
北端の浅間台の切岸がある大手口から模擬櫓のある主郭部下へは車で登ることができる。 右写真の右手を奥へ行こうとしたら、犬の鳴き声がしたのでや~めた。この強烈な切岸はとてもよじ登ることは出来ないでしょう!
 

主郭部下の駐車場から展望台(模擬天守)を
この駐車場まで、途中、両側に多くの段曲輪が確認できる。この駐車場も曲輪跡で、 左側一段上にもお稲荷さんの祠が祀られた曲輪がある。さらには、写真左奥(展望台左側)も曲輪跡である。駐車場に着き、 この何ともちゃちな模擬天守(展望台)を見た時点では、正直、ガッカリした。

t天守(展望台)上から主郭部を
正面の一段高くなった森が「倉の台曲輪」、左側説明板前から奥へ搦手口(南尾根)への道がある。

天守(展望台)から大多喜方面の眺望
展望台の姿形の是非はともかく、眺望は素晴らしい。

井戸跡(主郭部西側下に)
往時のものらしいが、コンクリートの枠はちょっと違和感があるでしょ!!今でも、 水が満々と湛えられているのはスゴイ!

倉の台北西部の櫓台跡
主郭部南端には一段高く、東西に細長い曲輪(倉の台)があり、その北西隅には櫓台跡らしき高みがある。 手前の窪みは(枡形)虎口跡であろうか?

南尾根方面へ
倉の台東側下からは、搦手口への道が続く。右城壁上は倉の台、左下も垂直切岸になっている。

上写真から少し進むと、左側に東尾根に続く城壁が見えてきて、光景は一変し、 まさに戦国期の城郭の世界へと入って行く。

東尾根城壁
垂直に切立った城壁は見事なものだ。㊧の右下も急崖で、天然の地形に手を加えたものであろうか?
 

振り返って見る
右崖は上写真の東尾根城壁、左下は天然の空堀(勿論削ってはあるが)で、強烈な崖になっている。

深い谷底へ
さらに整備された道が谷底へと続く。ここからが城壁や堀切、竪堀、空堀等々、 この城址の最大の見どころのようであった。しかし、道こそ綺麗に整備されてはいるものの、道の両側には藪が迫り、それと同時に「マムシ注意」 の看板を見てしまった。
大抵の人は同様だと思うが、ご多分に漏れず、私もこの種の看板が嫌いだ。「時間もあまりないことだし・・・。」「それほど遠い所でもないし、 冬に草が枯れたら、また来れる」等々と自分に言い訳をして引き返してしまった。

万木城址全景(城址西側山麓から) ~クリックにてズームアップして拡大画面に~
模擬天守(展望台)も、こうして遠くから見上げると結構様になっていて、悪くないなと思う。

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