陣屋跡の竹岡小学校のグラウンド隅に僅かに残る土塁かも?
徳川譜代松平重勝の三男重則が構えたが10年で廃藩、幕末には異国船に備え再建
別名
竹ケ岡陣屋(幕末)
所在地
千葉県富津市竹岡1000(竹岡小学校)
竹岡小学校:電話0439-67-8327
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:竹岡小学校
遺構等:なし
満足度
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訪城日
2009/01/18
歴史等
徳川家康の六男で越後高田藩主松平忠輝の家老松平(能見)重勝は、忠輝が元和元年(1615)
の大阪夏の陣への不参の罪で改易になると、2代将軍秀忠に仕えて下総関宿2万6千石を領し、次いで遠江横須賀に転封となった。
この重勝の三男重則は関ヶ原合戦や大阪両陣で功績があり、元和7年(1621)に大番頭、寛永7年(1630)に留守居に転じ、
奏者番も兼ねていたが、寛永10年(1633)に4千石を加増されて、合わせて1万5百石を領有して立藩し、百首に陣屋を構えた。
しかし、寛永17年(1640)重則が下野皆川に移封されると百首は廃藩となり、以後は立藩されなかった。
幕末の文化7年(1810)になり、異国船の出没に備えて、老中松平定信が幕命によって竹ケ岡陣屋を築き、また百首城跡には台場
(砲台)を築いた。
『藩と城下町の事典(東京堂出版刊)他より』
現況・登城記・感想等
遺構は全く残らず、石碑、標柱、説明板のたぐいも全くない。
大体、富津市は他にも歴史遺産が多くあるにも関わらず、その多くが大事にされていない印象を受ける。
市に文化遺産を守ろうとする意識が欠如しているのでは?
尚、表紙写真は竹岡小学校東側に残ると云われる土塁と思って撮ったが、これもちょっと疑問かな?
(2009/01/15訪れて)